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21-7 アキヒコ
おとんと出会う前にも、こいつはそうやったんかなあ。
それとも、おとんには、にこにこしたんか。
夢中 になって、亨 が俺にするみたいに、デレっと惚 れたような、甘い甘い顔して見てたんやろか。
俺は悔 しい。それを思うと、なぜか。
湊川 がまだまだ余裕綽々 の優 しいような目で、俺を見上げているのが。
「おとんとも、寝たことあるんか」
いきなりすぎる話やけども、俺の辞書 にはどうせ、デリカシーの文字はない。
真顔 で訊 いてる俺を見て、湊川 はかすかに笑うように、意地悪 く眉 をひそめた。
「何度もあるよ。内緒 やけども」
「なんで内緒 なんや」
「水煙 に、ぶっ殺されるって、先生のおとんはビビってた。俺は秋津 の家風 に合わへんて、水煙 様は俺がお嫌 いやったんや。暁彦 様の家の連中 も、どうも俺にはええ顔しいひんかったらしいしな」
にやにや笑って、湊川 はゆっくりと俺の足を床 に返し、それが当たり前みたいに、ソファの俺の隣 の席に座った。
触 れようと思えば、触 れる近さやった。
そやのに、触 れようとしなければ、触 れへん遠さやった。その絶妙 の距離感 が、思えば意地 の悪い、控 えめというか品 がええというか、それでいて、触 れてればって甘く誘 うてるような、月明かりの中のヤバい雰囲気 やった。
「叔母 さんなんか、いいひんで、うちには」
「昔の話や。もう皆、くたばってもうたんやろう。秋津家 には、なかなか子供ができひんかったらしい。先生の家の人らみたいに、仙 か人かていうレベルになってくると、身ごもるにも通力 が必要になってくるんや。それでまあ、前の奥様も、やっとの思いで暁彦 様と登与 様と、ふたり産んだら一杯一杯やったようや。そやから暁彦 坊ちゃまは、大事な大事な一人っきりの跡取 り息子でな、怖い連中に見張られ閉じこめられて、嫌 も応 もなく、押しも押されぬ秋津 の頭領 や」
煙草 吸ってええかと、湊川 は目で訊 いた。
サイドテーブルに元々あった箱にある一本を、どうせ吸う気で口元にもっていき、もうライターも持ってるしやで、俺が嫌 やて言うたかて、やめるつもりはないんやろ。
そう思って俺は、微 かに頷 き、喫煙 を許 した。
煙 の匂 いは嫌 やけど、俺はこいつが煙 を吐 く時の、何とも言えずしどけないような表情が好き。
ふはあと吐 き出された煙 が、蜘蛛 の糸か、妖 しい異国 の文様 かのように、複雑にたなびいて絡 み合うのを見るのんが好きや。
俺が期待して見つめる横で、湊川 は俺が見たい通りのものを見せた。
長い足を組み、こころもち顎 を上げて、青白い闇 に白い煙の文様 を描きだす有様 と、その時の、どこか恍惚 とした顔を。
「おとんは嫌 やったんか、家を継 ぐのが」
俺は訊 ねた。そんなこと今まで、考えたこともない。
「嫌 やった訳やないやろ。ただ、しんどかったんや。家を継 いだら、できひんことがある。絵描きにもなりたいし、それに、洋行 もしてみたかった」
洋行 って、わかるかと、湊川 はふと気付いたように、俺に訊 ねた。俺の歳 を思い出したらしい。
洋行 というのは、古い言葉でいうところの、海外旅行のことや。
今やったらすごく簡単で、パスポートとって、航空券買えば飛行機に乗せてもらえるし、思い切りとちょっとの金 さえあれば、あっという間に外国や。
でも、おとんが生きてた頃には、外国行くのは今よりもっと、大層 なことやった。
金 はあったやろ。行こうと思えば行けた。
そやけど俺と同じで、おとんは家から出たことがなかった。二十一になるまでいっぺんも、京都から出たことがない。
おとんが初めて京都を出たのは、従軍 して死ぬためやった。軍艦 乗って遠い海で見たのが、生まれて初めて眺 めた外国で、つらい戦いの航海 やったけど、それでも胸躍 る洋行 でもあったわけ。
「上海 見たいて言うてたわ。それに巴里 に倫敦 か。舞鶴 から船乗って、日本海越えて釜山 やろ。そこから京城 、鉄道乗って、上海 、北京 。モスクワやベルリンも見たい。美しき青きドナウも見たい。ローマも見たい。あれも見たい、これも見たい。そこへ行って絵を描きたい。そやのに家に囲 われて、京都盆地 を出られへんのやで。恨 みもするわ」
くすくす笑って、湊川 はおとんが、面白いようやった。
今はもう、ここには居 いひん、死んだ人間が逝 く位相 にいてる魂 のことを、懐 かしそうに笑っていた。
「蹴散 らしていったらええねん。行きたいんやったら、ババア共 が結界 切られて死のうが生きようが、知ったことかやで。それくらいの力はあったんやないんか。でも先生のおとんは、イイ子やったしな。我慢 していた。俺から外国の話聞くので、満足してたわ」
「お前は洋行 したことあったんか」
「あったよ。あっちフラフラ、こっちフラフラや。ラジオやからな。電波 飛んでりゃ、どこへでも行く。言葉も不自由しいひん。何カ国語でも話せるで」
淡 い笑みで教えて、湊川 は間近 に俺を見つめ、煙草 を挟 んだままの指をのばして、見ている俺のこめかみあたりの髪 に触 れてきた。
たぶんそれが、何かの切 っ掛 けやったやろ。
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