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21-12 アキヒコ

 それは俺の欲しいもんやった。逃げ込ませてくれる、甘い(にお)いのする(はだ)と、温かい(うで)。  いつもやったら(とおる)がそれで、おかんの代わりの、俺の避難所(ひなんじょ)。  だけど今夜は、そうは行かへん。俺はあいつからも、逃げてきた。  そろそろ本題の(けん)。話さんとあかんやろ。なんのこっちゃと思うやろ。  湊川(みなとがわ)もそういう顔やった。俺に話せと、(うなが)す顔をしていた。  俺はこいつに、なにもかも話そうと思った。誰かに相談したい。答えは()らんねん。ただ聞いてくれるだけでいい。  俺はつらいんや、(なや)んでる。結論は自分で出すけど、でも一人で(なや)むのが、つらいねん。  抱いてくれ俺を、可哀想(かわいそう)やって言うてくれ。そんな弱い俺でも、別にかまへんて、(やさ)しい目で見つめてくれ。まるで俺が好きみたいに。  愛してなくていい。愛はときどき、重たいんや。  話す俺の早口を、湊川(みなとがわ)は長い(まつげ)(けむ)る、朧月(おぼろづき)のような目を()()にさせて、静かに聞いた。  その話はまた少々、時を(さかのぼ)る。  そこは一つの分岐点(ぶんきてん)やった。  俺の未来を決定する、些細(ささい)なような、ひどく重いような、運命の()き進む先を切り替える、ルート切り替えスイッチのあるところ。  俺は(とおる)と、瑞希(みずき)を連れて、ヴィラ北野(きたの)に戻ってきた。絵を描くためや。  何から描こうか。  まずは(うで)ならしから。  戻ってきた瑞希(みずき)を見て、水煙(すいえん)()()()たりと、したり顔やった。いかにも満足そうやった。  いつの間にやら水煙(すいえん)も、部屋に戻ってきてたんや。  竜太郎(りゅうたろう)が、ぶっ(たお)れたらしい。(たお)れた言うても、(ねむ)いだけ。不眠(ふみん)不休(ふきゅう)で予知をしていて、さすがに限界(げんかい)が来たとかで、ぐうぐう(ねむ)っているらしい。  そやから水煙(すいえん)は、することもないし、海道家(かいどうけ)連中(れんちゅう)()ってもしょうがないとかで、(とら)(たの)んで、部屋に戻させたらしい。  まあ、確かに、(とら)と鳥さんがいちゃついてるのを見てても、しゃあないからな。微妙すぎやろ、水煙(すいえん)にとっては。  水煙(すいえん)()ってくれてよかった。  (とおる)瑞希(みずき)と俺と、その三名様やったら、たぶん相当(そうとう)に気まずかった。  それに瑞希(みずき)は、自分がここに()れるのは、水煙(すいえん)(ゆる)したからやと思うてるらしい。  そもそも水煙(すいえん)は、瑞希(みずき)が大阪で()れて鬼と()した時にも、こいつの(おも)いに(なさ)けを(しめ)した。瑞季(みずき)はそれを恩義(おんぎ)に思うてるらしい。義理堅(ぎりがた)い犬や。  それで水煙(すいえん)が部屋にちゃんと()ったのを見て、瑞希(みずき)はほっとしたらしい。  俺が(たの)まれて、水煙(すいえん)を青い人型の姿にしてやっても、その異形(いぎょう)の神に恐れはなさず、瑞希(みずき)居間(いま)のソファの、水煙(すいえん)のすぐ(となり)に、ちんまり座って大人しくしていた。  そうしてるとまるで、俺のやのうて、水煙(すいえん)の犬みたいやった。  新入りを水煙(すいえん)に押しつけて、(とおる)もほっとしたらしい。  やっぱり窮屈(きゅうくつ)やったやろ。それで当然や。  キスしてくれと俺にせがみ、(とおる)は俺をバスルームに引っ張り込むと、そこでしばらく抱き合って、唇を重ねてた。  その息があんまり必死なようで、俺は(こま)った。こんなん、続けていけるんか。俺はそれで、平気なんやろかと、すごく気が(とが)めて。  鉛筆(けず)れと、(とおる)瑞希(みずき)に命令してた。あれは一種の命令やったと思う。  瑞希(みずき)はそれに嫌な顔もせず、大人しく鉛筆(けず)ってた。(とおる)もそれに張り合うように、鉛筆(けず)る専用の小刀(こがたな)で、器用(きよう)に黒い鉛筆を、(するど)(とが)らせていた。  俺のほうが上手(うま)いとか言って、犬と(へび)とが(きそ)い合う様子は、まるで(なご)やかなようにも見えたけど、俺は不安やった。  きっと一触即発(いっしょくそくはつ)なんや。俺はたぶん、現在進行形で鬼みたいなことをしてる。  一度は殺し合うた間柄(あいだがら)のふたりを、同じ部屋に(はべ)らせて、自分が絵を描く鉛筆を、ひたすら(けず)らせている。  そしてそれを(だま)って見てるのがつらくて、俺は誤魔化(ごまか)すように絵を描き始めてた。  何を描くかも思いついてへん。頭の中の画布(キャンバス)は真っ白やのに。とにかく何か描きたいと、絵の中に逃げようとしてた。  そうして描きあぐねてる俺を、水煙(すいえん)はどことなく、うっとり()めるような目で、じっと静かに見つめていた。  こいつは鉛筆なんか(けず)らへんねん。神様やしな。俺より(えら)いんや、水煙(すいえん)は、たぶん。  (けず)れと命令すれば、きっと平気で(けず)ったんやろう。水煙(すいえん)はもともと刃物や。鉛筆くらい余裕で(けず)れるやろうけど、でも、あんな綺麗(きれい)(きた)え上げられた芸術的な白刃(はくじん)を、鉛筆(けず)るのに使おうというアホが()るやろか。俺はそんなこと、到底(とうてい)できひん。  水煙(すいえん)は美しい神や。優雅(ゆうが)鎮座(ちんざ)し、(あわ)()みのような表情でいると、特に美しかった。  俺を(たの)もしいもののように、うっとり(なが)めている顔をしていた。  俺を愛してるという顔。(とおる)とはまた違うけど、俺を信じてる目やった。  お前はやれると、俺を(はげ)ました時と同じ。秋津(あきつ)跡取(あとと)りとして、三都(さんと)の王として、俺より相応(ふさわ)しい(もん)はいいひんて、深く満足してるような目や。  その目で見られて、俺はつらく、(せつ)なかった。  水煙(すいえん)は俺を愛してんのやろ。俺が()(にえ)にするために、瑞希(みずき)を連れて戻ってきたと思ってて、それが(たの)もしいわと、喜んでいる。  (とおる)が言うてたみたいに、俺に()(なお)してる。そういう顔やったんや、あれは。

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