302 / 928

21-22 アキヒコ

「ええやん別に。そいつが寒いわけない。いつも(はだか)やねんから。さっさと行こうよ、アキちゃん」  ぷんぷんしてきたらしい(とおる)が、ガミガミ俺を()かした。  すみません。ガミガミ言われて当然です。 「犬も行くで。ぼけっとしとらんと(くつ)はけよ」  ぽかんと見ていた瑞希(みずき)に、(とおる)はだるそうに声かけた。  ほんまは(さそ)いたくないけど、しゃあないから(さそ)うと言わんばかりの声やった。 「え……俺も行くの?」 「そらそうやろ。お前も今や家族なんやから。チーム秋津(あきつ)のメンバーなんやろ。それともお前はもう(めし)食われへんのか?」  天使(てんし)経験者やしな。もはや俗界(ぞくかい)(めし)など食わんのかと、(とおる)はそう思ったらしい。  瑞希(みずき)はぽかんと考えて、自分の腹具合(はらぐあい)(さぐ)ったらしい。 「食えるとは思うけど……」  遠慮(えんりょ)してるらしい。それでも、腹減(はらへ)ったみたいな顔で、瑞希(みずき)はしょんぼりしていた。  (とおる)はそれに知らん顔して、とっとと水煙(すいえん)車椅子(くるまいす)を押していった。 「先行ってるからな、アキちゃん。ぐずぐずしてへんと来るんやで!」  とっとと出ていく(とおる)は、たぶん俺に気を(つか)っている。あいつはそういう、変なとこある。  瑞希(みずき)と俺を、ふたりっきりにして、サシで話をさせてやろうという事やったんやろ。  なんであいつがそんな気を(つか)うんか、俺にはよう分からん。あと二日三日で()(にえ)になる犬が、可哀想(かわいそう)やとでも思ってたんか。  たぶん、そんなところなんやろうけど、そんなこと思えるあいつが、長らく悪魔(サタン)として()られていたというのは、納得(なっとく)のいかん話や。  人間ていうのは、勝手な思いこみで神を悪魔とすり()えて、殺したりする。そういう、(おろ)かな生き物なんやろな。 「ジェットコースターしよか、水煙(すいえん)超特急(ちょうとっきゅう)でいこか」  そんな話をしている(とおる)の声が廊下(ろうか)に消えて、やめてくれと血相(けっそう)変えてるらしい水煙(すいえん)の悲鳴がしたが、俺はそれをすぐには追いかけられへんかった。  瑞希(みずき)がまだしょんぼりと、ソファに座ったままやったからや。 「どしたんや。行こか。腹減(はらへ)ってんのやろ?」  (かた)を落として絵を見てる、瑞希(みずき)()せた顔に、俺は気まずく声をかけた。  ()せたなあと思って。やつれたというか、最後に見た時よりも、なんか、へこたれている。  堕天使(だてんし)なるのって、どれくらいしんどいもんなんか。全く見当(けんとう)もつかへんわ。 「腹減(はらへ)ってるような気はするんですけど、でも、たぶん、飯食(めしく)うても治りません」 「具合(ぐあい)悪いんか?」  俺は何の気なしに、それを()いた。身内やしな、なんでもないような質問や。  具合(ぐあい)悪そうやったら心配するし、どないしたんやって()くぐらい、普通やろ。  でも、それは俺と瑞希(みずき)にとっては、普通やなかった。それを()くのに三万年かかった。  俺がもっと早くに、それを瑞希(みずき)()いてやってれば、そもそも起きひんかった問題や。死なんで済んだ人らがいてる。  瑞希(みずき)はちょっと(せつ)なそうに俺を見た。 「具合(ぐあい)、悪くはないです。疲れただけです。休めば治ると思う……」  じっと俺を見て、瑞希(みずき)は顔をしかめた。何かつらくて、我慢(がまん)できひんというような顔をして、すぐに目を()らしてた。 「ゆっくり休めば、治ると思います。でも、ほんまの話なんですか。さっきの」  暗い声で話す、その話口調(はなしくちょう)には、耳に(おぼ)えがあって、俺は身構(みがま)えた。  何度かこいつに聞かされた。爆発寸前みたいな、押し殺した声や。  悲痛に俺をかき口説(くど)く時の、いつもの、心細(こころぼそ)そうな犬の声。 「あと三日しかないんですか。でも、俺が死んだら、先輩(せんぱい)の役に立つんですか。そうなんやったら、死んでもええねん。死んでこいって、命令してくれたら、いつでも行くわ。でも……」  ぶつりと途切(とぎ)れたように、瑞希(みずき)の話は途中(とちゅう)で止まった。  なぜ(だま)るのか、俺はどうしても気になって、いつのまにか()らしていた目を、俺はまた座る瑞希(みずき)に向けていた。  瑞希(みずき)はじっと、ソファの上に残されていた、水煙(すいえん)の絵を見てた。  (かす)かに胸を(あえ)がせて、今まさに覚悟(かくご)を決めてるような横顔やった。 「でもな……先輩(せんぱい)。そしたら俺のことも、愛してくれる? 抱いてくれますか。あと二日。それでもええねん。そのために、死んでもええわって思うくらいや。いつも言うてたでしょ」  燃えるようやった。まだ天使やった時の、こいつを抱きしめた時、まるで火でできてるような、熱い体やった。  その火がまだ瑞希(みずき)の身の内や、目の奥に、残っているように思え、きっと抱いたら燃えるようなんやろうなと思えた。  俺は呆然(ぼうぜん)として、そのことを思い、なんも答えられずに、瑞希(みずき)とただ(にら)み合っていた。  こいつは、どうせえ言うてんのやろ。  考えんでも分かるような、自分が求められていることが、俺にはそのとき、頭がめちゃくちゃ混乱していて、よう分からんかった。たぶん、心底(しんそこ)ビビってたんや。  何にって。  何にか分からん。  たぶん、自分が(とおる)にこう言う。悪いんやけど、今夜は瑞希(みずき)と寝るわ。お前はどこか、よそへ行け。  その時、水地(みずち)(とおる)がどんな顔をするか。  アホか食うてまうぞと俺に怒鳴(どな)るか。  それとも、ああ、そうなんやと言うて、(さび)しそうに去る。その背中を見るときの、自分が(こわ)い。

ともだちにシェアしよう!