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21-32 アキヒコ
めちゃめちゃ気まずくて、俺はとっとと水煙 に逃げていた。
いや、逃げてた訳やないねん。夏やというのに、店には綺麗 な淡 いブルーのカシミヤのショールがあって、女物 やろうけど、シンプルな飾 り気 のない品物 やったんで、車椅子 の水煙 の膝掛 けにどうかなあ、って。
それが逃避 か。逃避 そのものか。
でも、試しに膝 にかけてやったら、気持ちええなあって、水煙 は喜んでいた。色も良う似合 うてた。青系やしな。
「アキちゃん。俺もお前が描いてくれた絵のような姿になってみたいわ。気合いが足らんのやろうか」
水煙 は、それを気に病んでいるように、小声で俺に訊 いた。
不死鳥 も変転 したし、亨 も瑞希 も変転 できる。みんな簡単にやってんのに、自分はできひんというのが、気になるんやろう。
「あんな姿 でええんか」
俺は自分が描いた絵がほんま水煙 に相応 しいんか、急に自信がなくなってた。
自分勝手な理想像を、俺は水煙 に押し付けてんのやないか。
「何があかんのや。お前が好きなら何でもええよ」
水煙 は淡 く笑ったような声でそう答えた。
手を握 ってくれと求められている気がして、俺はショールをかけた膝 の上にある、水煙 の小さな青い手を見つめた。
でも、なんでかそれを、握 る勇気が湧 かへんかった。
「アキちゃんは俺に、皆が見て、綺麗 やなあって言うような姿をしていてほしいんやろ?」
微笑 んで、水煙 は俺にそう確かめた。俺は頷 きもせず、否定もしいひんかった。
「お前は今でも綺麗 やで」
「いいや。俺は化け物みたいや」
にっこり笑って、水煙 はそう言うた。
その顔は、俺には綺麗 に見えたけど、もう分からへん。そう思うんやったら、別に今の姿のままでもええはずや。なんで俺は、その姿のほうを、絵に描いてやらへんかったんやろう。
「水煙 ……」
何か疲 れて、へたってきてもうて、俺は車椅子 の車輪の横に、ぐったりしゃがみ込み、その肘掛 けにもたれ掛 かっていた。
自分では、意識してへんかったけど、俺はたぶん水煙 に、縋 り付きたかったんやと思う。うちの神様、俺の守り神に、お縋 りしたい気持ちやった。
「どうしたんや、アキちゃん」
どこか怖 ず怖 ずしたような、控 え目な仕草 で、水煙 は俺の髪 を撫 でた。その淡 い感触 に、俺は目を閉じていた。
「瑞希 が俺に抱いてほしいらしい。あと三日やから」
「あの犬か。抱いてやったらええやんか」
「嫌 や。そんなん。亨 はどうなるんや」
笑う気配 で答える水煙 に、俺はゴネる口調で返事をしていた。
傍目 には、きっと相当 変やろう。誰も乗ってない車椅子 にぶつぶつ言うてる男なんて、異常やで。
俺がつらいのは、そのことやねん。水煙 が俺にしか見えてへんことや。
うちの蔵 におる、からんころんて歌う妖怪や、庭で遊んでくれる舞 ちゃんが、俺の同級生には誰にも見えてへんかったことや。
美醜 は関係あれへん。俺に見えているものが、皆にも見えててほしいのや。
そうでないと、分かってもらえへんやんか。
「それは亨 と相談したらどうや」
まだ俺の髪 を撫 でながら、水煙 はとんでもない意見やった。
俺はほんまにびっくりして、がばっと起きてた。
「な……なんやそれ。本気で言うてんのか?」
「相談してみ。なんと返事するかは知らんけど、あいつも神や。お縋 りしてみ。俺にそうするより、きっと頼 れる相手やろう」
「嫌 み言うてんのか……」
そうに違いない。俺はそう思って、さっさと傷ついていた。
水煙 が俺を突き放すなんて、そんなことありえへん。そんなん、嫌 やって、そういう傷つき方でな。
しかし水煙 は、ちょっと寂 しそうに笑っていた。
「そういう訳 やない。でもお前は、もう、あの蛇 と結婚したんやろ。あれがお前の相方 で、俺やない。お前を助けてやれるのは、俺やないんやで」
嘘 や。信じられへん。
水煙 は、自分は知らんと言うていた。俺にはそう聞こえた。
今まで何でも指図 してきて、俺が困 ればアドバイスしてたやんか。ある意味、俺は、それを鵜呑 みにしてやってきた。困った時の神頼 み。ありがたい水煙 様を拝 んだら、ご神託 が下 るんや。
それに素直 に従 っといたらええんやって、そんな気分がどこかにあって、水煙 を頼 っていた。
俺は元から、そういう無責任な質 の、情けない男やったんやろなあ。
子供のころから、おかんの下僕 で。それを過 ぎたら、次は水煙 や。
誰かそういう、畏 れて崇 め奉 る相手が欲しいんや。まあ、それも、血筋のせいと言えなくもないが、情けないことには変わりはあれへん。
「無理や。ありえへん。そんな話、とても亨 には言われへん」
「そうか……ほんなら俺が言うてやろうか?」
つるりと黒い目で、水煙 は俺を見下ろしていた。
べったり俺を甘やかしてきた、おかんと同じ目やった。愛 おしいお前が、つらいんやったら、それから守ってやりたいと、水煙 の愛情というのは、そういう類 のもんや。
俺はまた疲れて、首を横に振 った。
やめてくれ、そんなの。勝手に言わんといてくれ。俺がちゃんと話す。
いいや。そうやのうて。俺は亨 には言われへん。断るしかないんや。瑞希 に。
拒 むほかに、思いつく手がない。また同じや。夏に大学で、延々 とあいつを無視 していたのと同じ。俺はお前に応えてやられへん。そんなこと、俺に求めんといてくれと、知らん顔して逃げるつもりや、俺は。
あの時は、最悪それでも良かったかもしれへん。俺はあいつに責任がなかった。赤の他人やった。
けど、今はどうやろな。
瑞希 は俺のために死んでくれるんやって。それが赤の他人で通るやろうか。
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