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21-37 アキヒコ

 夜見た綺麗(きれい)な夢の絵を描くように、俺は脳裏(のうり)()()めていた、このホテルで見た美しい情景(じょうけい)を、ざくざく書き散らしていた。  色も()ったり()らへんかったり。()りたいとこだけ()っといたり。水彩(すいさい)やったりパステルやったり。色鉛筆(いろえんぴつ)()るだけやったり。  それを描けたそばから、そこらへんの(ゆか)()らしておいた。  (とおる)は自分の絵をだらだら描きつつ、面白そうに時々それを(なが)めた。床に散らばる無造作(むぞうさ)なヴィラ北野(きたの)ギャラリーみたいなやつを。 「アキちゃん、この絵、どないすんの?」 「どないすんのって、どうもせえへん。落書(らくが)きやもん」  いつか廊下(ろうか)で見た、でかい蟷螂(かまきり)蜥蜴(とかげ)の赤い血のような目を思い出しつつ、俺はその巨大な二匹の怪物(かいぶつ)と、それを連れてるオバチャンの絵を描いていた。  ともすれば醜悪(しゅうあく)なそれも、(みなぐ)霊威(れいい)を思い返すと、俺の目にはやっぱり美しいような気がしてた。  そうやって、手当たり次第(しだい)に描いていると、時々ふと気づくけど、俺はそう面食(めんくい)いでもないで。この世にある物は、たぶんみんな、どこかしら美しい。  絵を描く(もん)の目が、それを見つけられるかどうかの問題があるだけや。  見ようによっては、金属ゴミの日に出されてる、電柱(でんちゅう)()れるガラクタやって、ちょっとしたアートやからな。 「藤堂(とうどう)さんにくれてやったら? 絶対喜ぶで、あのオッサン」 「なんで?」  こんな落書(らくが)き。もらっても困るやろうって、俺は不思議に思い、にやにやトミ子を(かざ)薔薇(ばら)を描いている(とおる)(なが)めた。 「なんでって、あの人、この世で一番、自分のホテルを愛してんのやで。オッサンの作品やんか。()まる客までそうなんやで。うるさいねんから。レストランでは(えり)のあるシャツを着ろとか、絨毯(じゅうたん)()いてへんとこ歩かんといてくれとかさ。うるさいねん。まるでここが劇場(げきじょう)で、()まってる客は俳優(はいゆう)みたい。ほんであのオッサンが、美術(けん)舞台監督(かんとく)なんや」  はあ。まあ。言われてみれば、そうかも。  廊下(ろうか)煙草(たばこ)吸うてた湊川(みなとがわ)に、ここで吸うなって言いに来た時の中西(なかにし)さんて、怖い演出家みたいやったもんな。 「ここまで俳優(はいゆう)(つぶ)(そろ)うてることは、滅多(めった)にないやろ。しかも基本、オッサンのアートは記録に残らへん。刹那(せつな)の芸術やからな。それがもし、絵になって残れば、きっと幸せなんやで」  それがアホみたいというように、(とおる)(かす)かに、(ののし)る口調やった。  そうして、にやにや悪そうに笑い、裸足(はだし)(あし)をお行儀(ぎょうぎ)悪くソファの肘掛(ひじか)けに上げて、うだうだダルそうに絵を描いている(とおる)を見ると、なんて絵になる(やつ)やと俺は思った。  まるで絵のようや。それは(とおる)綺麗(きれい)やからというだけやない。座っているソファのデザインも、それを置く部屋の内装(ないそう)も、悪い冗談(じょうだん)みたいにロマンティックなんやけど、それでも(とおる)(かろ)やかなような美貌(びぼう)には、よう似合(にお)うてた。  キャラには()うてへんのやけどな、トラッキーとか無いし、『ごっつええ感じ』()るためのテレビもないしな、漫画(まんが)全巻セットもない。でも、この部屋はたぶん、水地(みずち)(とおる)()うための綺麗(きれい)箱庭(はこにわ)みたいなもんや。  俺はふと、そんな気がして、この部屋を作った男の思い入れを(かんが)み、(せつ)ないような気持ちになった。  やっぱり中西(なかにし)さんは、(とおる)のことが好きやったんやろ。(とおる)を俺から(うば)い返そうと思ってた。どこかでそう思ってたんや。  そうでなきゃ、あいつのための部屋なんか、わざわざ作っとかへん。  でも、それやったら何で、俺に(ゆず)ってくれたんや。それは単に、(とおる)が俺を選び、俺が勝ったというだけのことなんやろか。  頭の(しん)までぶち切れて、抜刀(ばっとう)した水煙(すいえん)を持って()み込んできた俺を見た時の、中西(なかにし)支配人(しはいにん)は、完全に呆気(あっけ)にとられていた。(あき)()てたような顔をして、(おどろ)いていた。  なんでこんな餓鬼(がき)に、俺は負けたんやろうかって、中西(なかにし)さんは意味分からへんかったんやないか。必死の俺を見て、可哀想(かわいそう)になったんや、きっと。  このアホみたいな子は、水地(みずち)(とおる)がおらんかったら生きていかれへん。捨てられたら格好(かっこう)悪すぎる。そんな(みじ)めで(みにく)いもんが、俺の目の前にあるのは(ゆる)せへんて、あの時ちょっと思われたんやないか。  中西(なかにし)さんは、(とおる)にふられても、ぜんぜん格好(かっこう)悪くはなかった。むしろ格好(かっこう)よかった。  俺やったら、ああはいかへん。()いつぶれて泣いて、グデングデンやねんで、絶対。ヘタレ男の代表例みたいになってたに違いないんや。  せやのに中西(なかにし)さんときたら、けろっと平気みたいな(さわ)やかな顔して、ふられた翌日(よくじつ)にはもう、綺麗(きれい)でノーブルな小悪魔(こあくま)(よう)ちゃんとデキていた。  めちゃめちゃ絵になる。二人で(なら)んで立ってると、完璧(かんぺき)仕上(しあ)げた青い目のお人形さんと、それの人形(つか)いみたい。  このホテルは神楽(かぐら)さんにも、よう似合(にお)うてる。ふたりで地下室暮らしというのでは、ちょっと暗すぎるかなとは思うけど、それはそれで、(あや)しい美しい陰影(いんえい)や。  そっちの作品でも幸せになれるから、(とおる)は気の毒なお前にやるわと、熨斗(のし)つけて(わた)されたような気がする。俺はきっと、武士の(なさ)けをかけられたんや。  それはまあ、例のあの絵の、返礼と言えなくもない。せやけど倍返し、三倍返し。いや、もっと莫大(ばくだい)な差があるやろ。絵と本物とやったら。  俺も中西(なかにし)さんに、またその返礼をせなあかん。()りっぱなしやと、格好(かっこう)つかへんからな。

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