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21-39 アキヒコ

 窓辺(まどべ)で寝ている青い神さんを、やんわり()すって(とおる)は起こした。  水煙(すいえん)はほんまに寝ていたらしく、とろんと眠そうに起きた。 「行こか。どこ行くんか、知らんけど……」  水煙(すいえん)の顔を見て、(とおる)はふてくされたように皮肉(ひにく)を言うた。  水煙(すいえん)はそれに、(かす)かに笑った。 「話つけたんか?」 「知らん。話もなにも。お邪魔(じゃま)(へび)やから出ていくだけや。本日ワンワン感謝デーやろ。あとはアキちゃんが好きにすりゃええよ。ウロコ系は一回休みや。お前と仲良く傷でも()め合うか。クルフィ味なんやろ。美味(うま)そうやなあ」  笑いながら、よいしょと車椅子(くるまいす)の向きを変えさせて、(とおる)はそのまま水煙(すいえん)を連れて出るような気配(けはい)やった。 「(とおる)……」  俺は(あせ)って、通り過ぎようとする二人を呼び止めた。  そやけど(とおる)は止まりはしいひんかった。そのまままっすぐドアまでいって、そこらへんに()()らかしてあった自分の(くつ)をごそごそ()いてた。 「声かけんといて。キレるしな」  あてつけみたいに、俺に怒鳴(どな)って、(とおる)はとっとと出ていった。俺は呆然(ぼうぜん)と立って、それを見送っただけやった。  そして部屋には、石のように押し(だま)る犬と、うち捨てられた俺だけが、息もできひんような重い空気の中に残された。  俺はへたりこむように、またソファに戻った。  (ゆか)にはたくさんの絵が()らばっていた。それを描いたのは俺やけど、(なが)めてみても、自分がどうやってそれを描いたんか、思い出されへん。  絵でも描いて、気まずい時間を(まぎ)らわせたいと俺は思っていたけど、そこへ逃避(とうひ)しようにも、絵の世界は俺を(こば)んだ。描きたいもんが何も()うて、何をどう描いてええやら、さっぱり思いつかへんのや。  鉛筆(えんぴつ)(にぎ)る勇気も湧いて()いひん。持ったところで、白い紙の上に、自分がなんにも描かれへんことを、俺はなんとなく予感していた。  不思議やわ。俺はそんなふうになったことはない。子供の頃から、何も考えんでも絵は描けた。息するようなもんやった。それが描かれへんのやから、俺は息の仕方(しかた)を忘れたようなもんやった。  まるで(とおる)が俺の絵心(えごころ)の神で、それが、ふいっと去ってもうたら、俺にはもう絵が描かれへんみたいやった。座敷童(ざしきわらし)に捨てられた家が、あっというまに没落(ぼつらく)するみたいに。  描きたい絵でいっぱいで、どうしていいかわからんくらいやった俺の心の絵の(くら)は、その一瞬でからっぽの、暗いがらんどうの部屋になっていた。  おれはそれが、ほんまに怖い。そんな目に()うたら、生きていかれへんて、時々思って怖かったことが、自分にも起きたんや。  いわゆるスランプというやつか。俺はそれに、なったことがない。  こんなに怖いもんやったなんて。そら死ぬわ。半年も一年もこれが続いたら、死んだほうがましやと思い()めもする。  絵を描くことのない人には、そんなんアホやと思えるのかもしれへんけど、絵を描くことは俺の(たましい)なのや。それを失ってもうたら、もう生きている意味がない。  (とおる)のいいひん俺の人生には、なんの意味もないって、そういう気持ちに()てんのかもしれへん。  俺はマジで、それが苦しかった。思わず(うめ)くぐらい、苦しかったんや。  ソファで頭を(かか)えて(うめ)いてる俺を見て、瑞希(みずき)はびっくりしたらしかった。血相(けっそう)変えて立ち上がっていた。  どっか具合(ぐあい)悪いとでも思ったんやろ。(あわ)てて()()ってきて、あいつは俺の絵を()んだ。  何をするのや瑞希(みずき)。俺の遺作(いさく)になるかもしれへん絵やで。もう描かれへんのやで。落書きやけど、俺の最後の作品なんやで。(たの)むし()まんといてくれ。 「どしたんや、先輩。どっか痛いんですか」 「なんでもない、絵が描かれへんだけや」  肩を(つか)んで顔を(のぞ)き込んでくる瑞希(みずき)に、俺は頭を(かか)えたまま答えた。  それにも瑞希(みずき)は、びくっとしていた。 「え。なんで。さっきまで描いてたやんか」 「もう思いつかへん。頭真っ白なってもうたわ」  瑞希(みずき)は俺の話を聞いて、ビビったらしかった。(あわ)てたふうに振り返り、床にたくさん()っている、俺の絵を見た。 「そんな……なんでやねん。大丈夫ですよ。スランプくらい誰でもなるから」 「俺はなったことない。お前はあるんか」  こういう時、どうすりゃええねんて、俺は瑞希(みずき)に答えを求めた。  でも、瑞希(みずき)は気まずそうに、眉根(まゆね)を寄せて答えた。 「俺もないです」  ぽつりと答えて、瑞希(みずき)は押し(だま)った。俺は朦朧(もうろう)とした気分で、それを見た。  そりゃそうやろな。そんな感じするわ。  絵も一種の神通力(じんつうりき)やで。天地(あめつち)との交感(こうかん)や。俺はそれに不自由したことはない。  瑞希(みずき)も人ではない身で、ただの犬やったのに、人間に化身(けしん)するほどの力を持ってたんや。神通力(じんつうりき)()ってるやつが、それを発揮(はっき)できひんようになったら、犬に戻ってまうやんか。  霊力(れいりょく)が強いから化身(けしん)できてんのや。(つね)絶好調(ぜっこうちょう)やったんや。スランプなんかならへん。  神様は、スランプなんかならへんねん。神やねんから。  そんなやつらに、俺の今の苦しい気持ちが分かるわけあらへん。  でも、(とおる)が帰ってきてくれれば、何とかなるかも。何の根拠(こんきょ)もないのに、俺はその思いつきに(すが)り付いてた。

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