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21-46 アキヒコ
どうしたら俺はこいつを、幸せにしてやれるんやろうって、俺は眠る犬の頭を撫 でてやりつつ、そんなことを考えていた。
そして気づいた。
俺は、アホや。
こいつを殺すということで、抱いてくれみたいな話になってんのに、それをどうやって幸せにしてやるんや。ほんの僅 かの幸せのためやって、それで俺に抱いてほしかったんやろ、瑞希 は。それで満足して死のうって、そういう事やったんや。
でも俺は、それを拒 んだし。抱いてやらへんかった。
俺はもう、その時すでに決めてたんやと思う。瑞希 を生 け贄 になんかしいひん。
俺の犬やで。なんで鯰 なんかに食わせなあかんねん。しんどい目にあって、やっと戻ってきたのに、可哀想 やないか。可愛 い俺の式 やのに。
そう思うと、どうしてええかわからんような、強い愛情が胸に湧 いてきて、俺は焦 った。
なんやろうこれは。瑞希 をめちゃめちゃ愛してる。俺のもんやと思う。めちゃめちゃ抱いて喘 がせたかった。どうせ泣くなら、幸せすぎやって泣かせたい。
何で今さらそんなこと。遅 いねん俺。恐竜か。遅れて脳 に達しすぎ。
でも、それはきっと、俺が上手 く逃 れたからやった。もしもまた土壇場 なって、抱いてくれみたいな話になったら、俺はまたビビる。
瑞希 は式神 としてでなく、恋人として抱いてくれみたいな話やったやろ。それは無理やねん。でも式 として、俺に仕 えて俺と愛し合う霊 としてなら、俺はたぶん、こいつを深く愛してやれる。俺が水煙 を、めちゃくちゃ好きみたいに。
でも、そんなこと、してええんやろか。瑞希 は犬の化身 したもんとは言え、元々は本物の人間みたいなつもりで暮 らしてた。それが俺の奴隷 みたいに、主人に仕 えて生きる立場に堕 とされて、それでほんまにかまへんか。
俺の命令に縛 られて、俺が死ねと言えば喜んで死ぬ。そんな哀 れな存在なんやで。
そうは言え、どうせ瑞希 はもともと哀 れなやつや。どうせ犬。可哀想 やけど、俺はそう割り切るしかない。
割り切って、こいつに首輪を買 うてやらなあかん。
お前は俺の犬やで、それで我慢 せえって、命令してやらなあかん。
もしも瑞希 が俺の式神 なんやったら、それで満足するはずや。
そしてもう、俺の弟ではない。ただの下僕 や。俺は瑞希 を踏 みにじって生きていく。そんな、ほんまもんの鬼 になる。
俺が今いるのは、そんなコースなんやろか。
汗、かいたなあと、俺は疲 れて思った。シャワー浴びたい。気持ち悪いわ。
禊 ぎをしたい。たぶん俺はそういう性癖 がある。やたらと風呂入りたくなるんやけど。身に付いた穢 れを祓 いたいという欲求があって、一日に二回も三回も風呂 入ってもうたりする。
その時も、なんの気なしにバスルームへ行った。そこには誰もいないんやと思ってたし。涙 ぐんで寝てる瑞希 をいつまでも見てたら、俺も急にまた変な気なってまうかもしれへんしな。
それでバスルームのドア開けて、俺はその場に凍 り付いていた。
だってな。中に亨 と水煙 がいたんや。
水煙 は、びしょ濡 れやった。
風呂 に浸 かったんやろう。貝殻 のバスタブに、浅 く水が張られていた。
でも、水煙 はいつもみたいに、裸 ではなかった。服、着てた。
俺が絵に描いたのと、寸分 違 わぬ、シンプルなシャツとズボン。それに、まぶしいような白い肌 と、暗い夜の淵 のような、黒目 がちなアーモンド型の目をしていた。
肩にかかる黒髪が、艶 やかな濡 れ髪 で、俺はその美しい姿に、ぞくっと来た。じっと上目 遣 いに見る水煙 の顔の、いつもとは違う、表情の豊かさに。
水煙 は赤みのある薄 い唇 で、にやりとしたような薄笑 いやった。そして、バスタブに座って組んだ長い足の上に、ぐったり死んだみたいな亨 を、縋 り付かせていた。
水煙 は、労 るような柔 らかな仕草 で亨 を抱き寄せて、その両耳を塞 いでやってた。目に鮮 やかな、白い手で。それは亨 の白い肌 よりも、さらにいっそう白い、純白 の紙のような色やった。
「水煙 か……?」
「そうや。お前が描 いたんやろ」
声だけは、前と変わらへん。穏 やかな品 のええ美声 で、水煙 は俺に応 えた。でも、俺は知らんかった。水煙 がこんな、どこか邪悪 なような笑 みをする奴 やったなんて。
「どうしたんや、亨 は」
「可哀想 になあ。根性 無 しやねん。お前が可愛 がってる犬が、喘 いでる声聞いて、こんなんなってもうたんや」
「いつ戻ってきたんや」
「割 とすぐやで。散歩 してたら、ふと思い出したんや。アキちゃんが、錦鯉 に人型 をくれてやるとき、描いてやった絵を水に浮かべて、その中に飛び込ませていた」
嬉 しそうに言う水煙 の顔は、なんともいえず淫靡 やった。その記憶にあるとおりのことを試 してみるため、戻ってきたんやろう。
バスタブには散 り散 りになった紙の切れ端 のようなもんが、浮かんでいた。それはたぶん、俺が描いてやった絵や。絵をとりに、水煙 は戻ってきたんやろう。亨 に車椅子 を押させて。
何でそんなところに、戻ってきてもうたんや。
俺は誰もおらんつもりやった。気がつかへんかった。すぐ隣 に、亨 と水煙 が居 るなんて。
平静 なつもりでも、それに気がつかん程度 に、俺はハマってたんや。夢中 でやってたんや。
その事実は、俺に猛烈 な自己 嫌悪 を与 えた。
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