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21-47 アキヒコ
「どうや、アキちゃん。犬とは上首尾 やったか。終わったんやったら、次は俺とやってみるか」
笑ってそう言う水煙 の顔は、冗談言うてるようには見えへんかった。しかし皮肉 な笑 みやった。やるにせよ、やらんにせよ、どっちにしてもお前は鬼 やと、言われてるようや。
笑う水煙 の口元 に、赤い舌が現れて、乾 いたらしい唇 を舐 め、それがまるで、俺を食いたいみたいやった。
その顔で、もしも抱いたら水煙 が、どんなふうに喘 ぐか、俺にはきっと想像がつくやろう。俺が描いた絵なんやから。俺が望むとおりに、どんな顔にでもなる。
「冗談 でも言うな……そんなこと。二連戦 は無理や……」
気絶 してんのかと思えた亨 が、床 にへたったまま低く呻 いて、縋 り付いてた水煙 のシャツの裾 をつかみ、その真新 しい美貌 の白い肌 を見上げていた。
「今度こそ俺は死ぬ」
震 える声で、亨 はそう嘆 いた。
「死なへん。悋気 くらいで死んでたら、俺なんかもう何万回と死んでる。苦しいだけや」
「我慢 でけへん……自分の男がほかのと寝てんのを、指銜 えて見てんのが、こんなにつらいもんやとは」
「思い知ったか、水地 亨 」
気味 良さそうに言い、水煙 は喉 をそらして、うっふっふと笑った。それはいつもの淡 い笑いではなく、喉 から振 り絞 られるような哄笑 やった。
よっぽど可笑 しいんか、水煙 は身悶 えるほど笑ってた。
亨 はその膝 にぐったり顔を埋 めていたが、なんでか知らん、水煙 はずっと、亨 の頭を撫 でてやってた。まるで自分のもんみたいに。
「効 いたわあ……ほんまに。堪忍 してくれ、水煙 。お前に見せつけてきた、因果 がとうとう巡 ってきたわ……」
わなわな震 えるふうな背を捩 り、亨 は俺を振 り向いた。
泣き濡 れた頬 が疲 れたふうにやつれていて、見開いた目が金色の蛇 のようやった。
耳を塞 いで身悶 えたせいか、亨 の頬 には細かいひっかき傷 みたいなのがたくさんできて、そこに張り付く後 れ毛 が、赤く汚 れて見えた。
噛 みしめてたらしい唇 も、異様 なほどの血の赤やった。
傷口からこぼれる血のような、ぼたぼたあふれる涙 を流して、亨 は腰 が抜 けてんのか、がくりと床 に両手をついて這 った。
「アキちゃん……まさか、明日もやんの。あと、三日やろ。俺、もう、我慢 できへんしな……もう、やめて。お願いやから。生 け贄 やったら、俺が行くから。もうやめて……」
床 をつかむ亨 の指が、引きつるように強 ばった、金色のかぎ爪 のある、鬼 みたいな指やった。
かたかた震 えているそれを、俺はじっと見つめた。目を逸 らしたくても、逸 らされへんねん。怖 すぎて。
「畜生 ……あの犬め。ぶっ殺したる。よくも俺の目の前で……俺の男といちゃつきやがって……」
むらむら霞 む亨 の姿が、白いウロコのある何かのようやった。変転 しかけのその姿に、俺の喉 は喘 いだ。
まさか鬼 かと、怖 ろしかったんや。
「許 せへん! 勝呂 瑞希 ! 今度こそ俺の手で、八 つ裂 きにしたる」
床 を睨 む亨 の顔から、ぽたぽた滴 り落ちてくる水滴 が、涙 か汗 か、よう分からへん。
とにかく亨 は何か怖いもんに変転 しようとしてた。
俺はそれを、見たらあかんのやないか。俺のせいでも、俺はそんな亨 の姿は、見たらあかん。
「落ち着け、亨 。お前を斬 らなあかんようになる」
獣 みたいな四 つん這 いの姿の亨 の背中を、水煙 が手を伸 ばして、ぽんぽん叩 いた。そしたら、靄 のようなもんに包 まれて変転 しかけていた亨 の体が、またじわりと元の人の姿に戻 っていくようやった。
「悔 しいんや、俺は、水煙 。あんな餓鬼 にアキちゃんとられて……悔 しいんや!」
「とられてへん。お前がうちのジュニアの連 れ合 いや。安心おし」
ううう、と亨 は、人とも怪物 ともつかんような怖ろしい声で呻 いた。
しばらく、のたうつように身悶 えた後、亨 は唐突 に抱きついた。俺にやのうて、水煙 に。
とにかく何かに絡 みつきたかったんやろう。蛇 みたいに。
亨 はぎゅうっと水煙 の首を抱き、痛恨 の表情で、濡 れた艶髪 に唇 を寄せていた。
「あかんのか水煙 。あいつをぶっ殺してやったら……」
「あかんに決まってるやろ。死んでもうたら生 け贄 にでけへん。鯰 は生 き餌 でないと食わへんのやから」
うめいて答える亨 は痛恨 の表情やった。堪 えている青い顔をしてた。
自分に縋 る亨 の腕 を、水煙 は優 しく撫 でてやっていた。お縋 りすれば守ってくれる。そういう神なんかもしれへんな、水煙 様は。
「心配するな。あと、ほんの三日や。犬が鯰 に喰 われる悲鳴を聞けば、お前の悋気 も晴 れるやろ」
よしよしと、水煙 は亨 の頭を撫 でてやっていた。俺の頭を撫 でてくれた時と、大して変わらん優 しさやった。
もしかしたら水煙 は、おとんが飼 うてた多頭飼 いの式神 たちが、焼 き餅 焼いて悶 えてる時には、こんな感じで慰 めてやってたんかもしれへんな。
こんなのが十も二十もおるんやからな。きっと日常茶飯事 やったんやろう。
なんて、怖い世界やろ。鬼 ばっかりで、まるで地獄 や。
「堪 えなあかんのやで。それがアキちゃんのためなんやから」
亨 の耳に優 しく言うてやってる水煙 に、俺はぐっと来た。
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