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21-51 アキヒコ

 鼻歌(はなうた)みたいやったけど、いい声やった。ゆったり流れる(おだ)やかな感じの歌で、曲のタイトルそのまんまの、暢気(のんき)で明るい感じの曲調(きょくちょう)やった。  俺はなんとなく、のんびりとした。それは、()まった(あわ)だらけの白い湯をかき混ぜながら歌う、のんびりした歌声のせいやったやろう。  のんびりしてるような状況(じょうきょう)ではないんやけど、ここでは時間までゆっくり流れているみたいやった。 「先生のおとんは遊び人で、歌が好きな人やった。特にジャズが好きで、戦争始まってからも、俺のところでこっそり(かく)れて()いていた。ほんまは、あかんのやで。敵の曲やし、()いたら怖いオッサンどもに、怒られるんや」  にやにや苦笑(くしょう)して、湊川(みなとがわ)は湯をまぜた手についた、ひとかたまりの(あわ)を、俺の胸に()りつけた。  なんでそんなことすんのか、俺にはよう分からんかったけど、それはたぶん、ただの愛撫(あいぶ)や。ふざけてるだけ。  白く長い指が、(あわ)(ぬめ)感触(かんしょく)とともに、のんびり胸を()でていくのを感じながら、(あわ)い笑みで話す顔を(なが)め、俺は不思議(ふしぎ)な気持ちになった。  おとんはこいつと、どんなふうに付き()うてたんやろう。体に絵描いたりして、エロくさいことして遊んで、一緒にジャズ()いて、歌歌わせて、異国(いこく)の想い出話を聞いて。  それは、式神(しきがみ)(げき)か。まるで、恋人同士みたいやけど。 「ありとあらゆる悪いことをしたな。暁彦(あきひこ)様は、俺んとこに来て。祇園(ぎおん)花街(かがい)のそばに家()りて、俺は一時期そこにいたんや。仕事があって……」  花街(かがい)で仕事。それは、どんな仕事やねんて、俺は身構(みがま)える顔やったんやろか。気づいて湊川(みなとがわ)は、ふふんと笑った。 「エロやないで。まあ、似たようなモンではあるけど。俺は情報(じょうほう)将校(しょうこう)で、平たく言うと諜報員(スパイ)やったんや」 「諜報員(スパイ)」  俺はびっくりして()り返していた。  そんなもんが現実に()ると、思ってもみいひんかった。いるとは知ってたけど、ほんまもんと会うことはない。そんなもんは俺と関係あれへん異世界の存在で、『007(ダブルオーセブン)』とかの映画に出てくるだけの、ファンタジーやと思ってた。 「おもろいやろ。軍服(ぐんぷく)のオッサン連中と仲良うしてたんや。当時はそれに、旨味(うまみ)があったんや。皆さん後々(のちのち)、腹()ったり首()られたりで、おらんようになってもうたけど。暁彦(あきひこ)様も死んだしな……」  ふっと笑って、湊川(みなとがわ)はその話を、可笑(おか)しいみたいに言うていた。 「まあ、でも、一時期はお(さか)んやったで、皆さん。暁彦(あきひこ)様とは、祇園(ぎおん)宴席(えんせき)()うたんや。鬼道(きどう)(すじ)若当主(わかとうしゅ)や言うて。風采(ふうさい)も良かったし。仲良うしといたら美味(うま)いかなあと」  (ずる)そうに言う湊川(みなとがわ)に、俺はちょっとむかっとして、傷ついた顔をしたかもしれへん。 「美味(うま)かったんか」 「まあまあね。そやけど、持ちつ持たれつやんか。向こうも俺んちを花街(かがい)別宅(べったく)みたいにして、ときどきフラッと遊びにきて、羽根(はね)のばしていってたんやから。ていのいい(めかけ)みたいなもんやで」  うっふっふと笑い、湊川(みなとがわ)は苦笑の顔やった。 「何遍(なんべん)か怖い連中が来て、暁彦(あきひこ)様を(かく)してるやろって、えらい(おど)された。先生のおとん、(いや)んなると家出してたみたいやで。俺が誑《たぶら》かしてるって、本家では不評(ふひょう)やったわ」 「()(ぎぬ)やったんか」 「いいや。(たぶら)かしてた」  しれっと言うて、湊川(みなとがわ)煙草(たばこ)に火をつけていた。(たぶら)かしてたんやないか。 「旧家(きゅうか)のボンボン生活に嫌気(いやけ)がさすし、洋行(ようこう)してみたいって言うから、俺が連れていってやろかって(さそ)ってただけや。どっか遠い遠いとこへ行って。ブラジルとか。モロッコとか。別にどこでもええけど、そこで二人で、面白(おもしろ)可笑(おか)しゅう()らそうか、って」  ふはあと(けむり)()いて、湊川(みなとがわ)はにこにこしていたが、俺にはその話はどうも、()()ちのお(さそ)いのように聞こえた。  お前はおとんを誘拐(ゆうかい)しようとしてたんか。それは水煙(すいえん)と仲良うできひんわけやわ。  あいつは何かというたら、家が大事、家が大事で、(しき)()()ちなんて、とんでもない。そんなん(ゆる)さへんと言うやろう。  ()()めれば、こいつを捨てるか、水煙(すいえん)を捨てるかや。  それでおとんは、湊川(みなとがわ)のほうを捨てたらしい。  おとんは秋津(あきつ)当主(とうしゅ)なんやし、論外(ろんがい)やな。()()ちなんて。  きっと、(なや)みもしいひんと決めたやろう。  そうなんやないかと、俺は思うけど。でも、ほんまのところは分からへん。おとんにしか、分からんことや。 「お前、おとんのこと好きやったんか」  俺はまた、びっくりして()いていた。  湊川(みなとがわ)はいかにも面白そうに、俺を見ないでくすくす笑った。 「そうや。意外な新事実か。ずっとそう言うてるやんか」 「それで家捨てろって言うたんか。自分と一緒に逃げろって? そこまで深い仲やったんか?」  俺がめちゃめちゃ(おどろ)いているのが、よっぽど可笑(おか)しかったんか、それとも()れでもしたんか、湊川(みなとがわ)はあっはっはと声あげて笑っていた。 「そうやないよ。(ため)しに言うてみただけ。しんどそうやったから。ほんならボンボンやめたらって、言うてみただけやんか。(むずか)しゅう考えすぎやねん。暁彦(あきひこ)様も。水煙(すいえん)も。本家(ほんけ)の連中も。必死すぎなんや、秋津(あきつ)(しゅう)は。可哀想(かわいそう)やんか、()って(たか)ってボンボンひとりを(いじ)めて、暁彦(あきひこ)様は息もできひんわ。何が血筋(ちすじ)(さだ)めやねん。そんなもんクソ食らえやで」  あんぐりとして、俺は湊川(みなとがわ)の横顔を見た。

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