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22-21 トオル
「こっちの話。とにかくロビーの床 に、傷はつけてませんから。ケーブルは確かに床下 に片付けたけど、それは俺の魔法 やし。支配人 」
「納得 いかへん。君といい、大崎 先生といい、今回の客は無茶苦茶 しやがる」
ぼやく藤堂 さんに、朧 は何が可笑 しかったんか、あははと声あげて笑っていた。屈託 ないふうな、しかし底意地 の悪い感じで。
「こんなんで参 ってたら、支配人 。本番なったら体、保 たへんで」
そうやな。地震が来て、鯰 が現れ、巫覡 や式 がそれと戦うのを見たら、藤堂 さんはどう思うやろ。俺のことも、どう思う。
蛇 に変転 した俺を見たら、お前は醜 いって、また言われんのかなあ。
「俺は行きます。もう、叩 き起こされたついでやし。街 にスピーカー設置せなあかんねん。面倒 くさいわあ……早く休みたい」
愚痴愚痴 言うて目をこすり、湊川 は立ち去る素振 りを見せた。
そして、ふと思いついたように、藤堂 さんを見つめた。
「支配人 、神戸が地元の人なんですよね。神 の戸 の、岩戸 って聞いて、どこやと思う?」
煙草 ふかして、湊川 は訊 ねた。藤堂 さんはまた、なんの話やっていう、不可解 そうな顔をした。
「岩戸 ?」
「そう。岩戸 。化けモンの出現地として、そう予言 されてるんです。神 の戸 の岩戸 に、死の舞踏 が現れる、って。なんか予兆 があるはずなんです。俺も噂 は集めてんのやけど、なんせ噂 やし、アテにはならへん。骨 は洋上 にも出たし、山の手にも出た。でも、なんとなく、骨 出たっていう話は、山の手のほうに偏 ってるような気がする」
「骨 って、なんの話?」
「幽霊 みたいなもんや。震災 で死んだ人の幽霊 が、出てるんです。嫁 はんに、仕事の話、なんも聞いてへんのか」
今はもう神楽 遥 が何者 か、ようく知ってる口ぶりで、湊川 は藤堂 さんをからかっていた。
どっかで噂話 でも、聞きつけて知ったんやろか。このホテルの支配人 には、結婚してるツレがいて、それが神父やという話は、前に天然のアキちゃんが暴露 してたけど、それ以上に詳 しく、今は知っているようやった。
「人間には、動物や外道 にもやけど、予知 能力があるんや。ごく、うっすらとやけど。予感とか、第六感とか、虫の知らせというやつや。そうやって予知 したもんが、人の噂 になって現れることがある。何となくの予感 でええんやけど、神 の戸 の、岩戸 がどこか、ぱっと思ったイメージを、教えてもらえへんやろか。それがすごく、役に立つんやけど」
丁寧 に話す湊川 の、品 のある美声 に、藤堂 さんは大人しく、耳を傾 けていた。それは何となく、楽器か古い名盤 レコードの、音を聴いてるような様子やった。
オッサン、レコード集める趣味がある。真空管 ついてるステレオ持ってる。蓄音機 まで持っている。音楽聴くのが趣味 やねん。
仕事でくたびれて、しんどいなあって思った時にやる、限られた趣味 。クラシックの名盤 を聴く。ビートルズの名盤 を聴く。そして、部屋で飼 うてる綺麗 な子の歌う、綺麗 な声の歌を聴く。
「石の庭 ?」
目を細め、自信ないけどという、おぼつかん口調で、藤堂 さんは答えた。この人がそんなふうに、断言しない言葉で話すのを、俺は今まで聞いたことがない。
「そうかもしれへん。その答えを返してくる人が多い。何か予感があるんやろう。六甲山 のロックガーデンね……」
「六甲山 に、骨 の幽霊 ?」
藤堂 さんは、ピンと来 えへんかったらしい。朧 は、煙草 をくわえ、うっふっふと笑った。
「人食うてる山やで、六甲山 は。山はもともと、そういうもんです。異界 に通じてる。人の世界やないねん。今でも、六甲山 で遭難 して死ぬ人はいてますよ、冬とかね。夏でも。軽いハイキング・デートのつもりで、可愛 いパンプスはいて行って、道に迷って地獄谷 とかハマって、彼氏と凍死 した女の話とかね。都市神話やろけど、あながち嘘 やない。気つけなあかん。岩一個周り間違えただけで、神隠 しに遭 うて、外道 に骨 まで食われてまうかもしれへんのやから」
山を舐 めたらあかんのやでえ、いう話や。温暖化したとはいえ、氷雪系 も棲 んでんのやから。
ほんまに居 るで。居 るやんか、蔦子 さんとこの啓太 とか、そうやねんから。
神隠 しにする神もいてる。今、喋 ってる奴 がそうやんか。気つけなあかん、藤堂 さん。邪悪 なのは蛇 だけやない。世の中、実は妖怪だらけなんやから。
薄気味 悪そうにしている、常識派の藤堂 さんを見て、朧 はくすりと笑った。
「それはええけど。男前 やなあ、支配人 。ほんまに今夜にでも、抱いてもらいたい。ここまで眠くなければ……」
くよくよ言うて、朧 は藤堂 さんの、質 のいいサマーウールのスーツの肩に、煙草を持った指で触 れた。
触 るなボケエ!! 俺でも我慢 して触 ってへんのに!
「熱いコーヒー飲みたいねんけど。近所にイケてるカフェないですか」
「あるよ。コンシェルジュに聞きなさい。ひとりで行くのか」
ひとりで行って何が悪い。俺はそう思うたね。藤堂 さんが心配げに、朧 にそう訊 くのを、すぐそばで聞いて。
銜 え煙草 で頷 いて、朧 は歩 み去っていった。
「ひとりで行くよ……寂 しいけど。カフェにええのがいたら、今夜のおかずにお持ち帰り……」
ほんまか嘘 か、ぼんやり歌うような声で言い、朧 はふらあーっ、と消えた。
明るくなりはじめたエントランスから出て、白い光の中に溶 けていくような、朧 な影になった。
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