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22-23 トオル
なにが怖かったんやろう、俺の。優 しゅうしてやってても、オッサンはどこか、心の奥深くで、俺に怯 えていた。
今もそうかと、俺は耳から毒 を仕込 んでやったつもりの男の顔を見た。その目はじっと俺を見ていた。
「暇 やないんやけどなあ、俺も」
「そうやろなあ。お前はいつだってそうやった。しょうもない仕事ばっかりして、俺を放置してたわ」
また振 られたわ。スカされた。俺はそう思って、悔 しくなり、目を逸 らして背を向けた。
もうええわ。服がまずかった。本気で誘 うつもりなんやったら、遥 ちゃんルックで来ればよかった。
「三十分でええか」
そう言われて、俺はぼんやり、振 り向いた。
このオッサンが、部下によく言うようなフレーズやった。
支配人 、ちょっとお時間頂戴 できますかと、困 った顔の奴 が来て、あるいは情 けない声のする電話が、ガンガン部屋にかかってきたのを受けて、しゃあないな、十分でええか。三十分でええか。今は一時間しかないわと、自分の時間を切り売りしている。
三十分コースか、俺は。短いなあと、俺は自虐的 に笑えてきて、その顔のまま、また藤堂 さんを見た。
ほんまに忙 しかったんやろ。そんな暇 ない。懐 かしい蛇 といちゃついてる暇 はないんや。ホテルは何か、大急ぎで準備してるようやった。藤堂 さんは大崎先生たちと連んで、何か手伝うてやるつもりらしい。
「三十分もくれんの。何ができるやろ。三十分あったら」
俺は楽しい空想 をしながら、藤堂 さんに訊 いた。オッサンは目を逸 らし、苦しいような、静かな皮肉 めいた微笑 の顔やった。
「さあなあ。色々やれるんやないか。お前が嫌 やないなら」
「嫌 やない。抱いて……」
癖 みたいになっとんのかな。俺は藤堂 さんに、過去何千回と頼 んだ同じことを、また強請 ってた。無意識みたいなもんやった。
それに藤堂 さんは頷 いて、くるりと俺に背を向けた。
歩き出すスーツの背を、俺は一瞬、ぼけっとして見た。捨 てられたんかと思って。
でも、そういう訳 やない。ついてこいという事やった。
このオッサンは、俺の手を引いて歩いたりはせえへん。アキちゃんとは違う。当然、腕 なんか組ませてくれへんで。
部屋 を出たら、俺に触 るな。赤の他人のふりをしろやで。He is a sweet guy only in a suite room. おっさんが優しい男 なのは、スイートルームの中でだけ。
そのはずやけど、今日は優 しくしてくれるんか。アキちゃんの代わりに。とうとう優しく激しく抱いて、俺にもエサをくれるんか。
食いたいなあ、藤堂 さん。俺も食いたい。腹減 ったなあ。朝飯 も食うてへん。昨日の夜飯 も、昼飯 も、朝飯 も食うてへん。丸一日、断食 してた。
そろそろ俺にも朝飯 を。朝飯 食わな、力出えへんやろ?
ちゃんと食べなさいって、昨日の朝、廊下 で会った湊川 に、藤堂 さん言うてたやんか。今朝は、俺にも言うて。亨 、ちゃんと朝飯 食べなさい。俺が抱いてやるからって。
地下にある、支配人室に降りていき、藤堂 さんはデスクと応接セットのある部屋の、立派な革張 りの社長椅子に、ほんまに座った。
そして画板 を開いて、中に挟 まれていた絵を、見てるようやった。
くすりと笑って、オッサンはすぐに、画板 を閉じた。そしてちょっと、気まずそうに躊躇 ってから、ぼけっと立っている俺に差 し招 く手をした。
「おいで」
「ほんまにやんのか、社長椅子抱っこ」
ちょっと呆 れて、俺は一応訊 いた。本気としか見えへんかったけど、そんなんすると思うてなかった。時々、変な趣向 のある人やったけど、社長椅子も実はツボやったんや。
やっぱりな……。
俺はそう噛 みしめつつ、ふらふらドアの前から、藤堂 さんのいるチェアの前まで行った。
前なら何も思わんかったかもしれへんけど、今はなんでか、躊躇 いがある。なんでか、ってことはない。アキちゃんの顔が、脳裏 にチラつく。
傷つくやろか。俺のツレ。知らんかったら平気やろ。
でも俺は、アキちゃんに言うてやるつもりでいた。藤堂 さんと、やってもうたわ。気持ちよかったわ。アキちゃんより、悦 かったわ。
俺がどんな目に遭 わされようと、惨 めに堪 えて、お前だけのもんでいるとは思わんといて。アキちゃん。俺にも価値があると思うてる男は、いっぱい居 るで。ぼやぼやしてたら、盗 られるで……。
スーツ男のお膝 に跨 り、向き合った胸に、俺はそうっと用心深く縋 り付いてみた。暖 かい、逞 しい胸板 やった。
前は痩 せてた。頑強 やったけど、でも、窶 れてた。病気やったしな。
今はもう、元気になったんや、藤堂 さん。触 れあった胸の、力強い胸の鼓動 が、微 かに早く、俺の胸を打っていた。
「これ、ほんまにお前が描いた絵か?」
藤堂 さんの胸から直 に聞こえる声に問われて、俺は顔を上げた。デスクの上で藤堂 さんは、画板 の中の絵を開いて見ていた。
そこに挟 んである何枚かある絵が、重なって見えていた。
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