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23-29 アキヒコ

 ベッドの上に残されていた、血のついたシャツの、比翼(ひよく)仕立(じた)ての身頃(みごろ)(すそ)を見ると、裏側(うらがわ)に小さく、臙脂(えんじ)色の糸で蜻蛉(とんぼ)刺繍(ししゅう)がしてあった。  それはたぶん、名前の代わりや。そういう刺繍(ししゅう)を入れてくれる仕立(した)て屋が、京都のどっかにあったんやろう。  おかんがいつも持っていた、古びた男もんのハンカチにも、同じ蜻蛉(とんぼ)が一匹だけ、(すみ)のほうに飛んでいた。今思えばあれは、鞍馬(くらま)天狗(てんぐ)形見(かたみ)やったんやろな。蜻蛉(とんぼ)(かざ)りかと、俺はずっと思うてたんやけど。  それも名前の代わりやったんや。仕立(した)てたシャツには名前入れるしな。俺のスーツ着るときのシャツにも、入ってるよ。イニシャルやけど。「A.H.」って。  おとんは、それやと、つまらへんかったんやろう。文字やのうて、蜻蛉(とんぼ)刺繍(ししゅう)を入れさせた。京の着倒(きだお)れって言うけども、おとんも着るもんには執着(しゅうちゃく)のある男やったんかなあ。ボンボンやしな。  そういえば、カフスのあるシャツは、なんとなくレトロっぽいというか、たぶん昔の流行なんやった。それは今見ても、イケてる仕立てやったけど、まさか七十年以上も前のモンとは。物持(ものも)ちのええ(やつ)や。 「着いひんかったら良かった。滅多(めった)に着ないのに。畜生(ちくしょう)、アホみたい」  ベッドに(もど)ってきても、湊川(みなとがわ)はまだくよくよ愚痴(ぐち)っていた。くどいなあ。 「おとんは、お前んちから持ち物を引き上げていかへんかったんか」  ()いたらあかんかとは思うたんやけど、何となく、今やったらラジオが返事するかと思って、(たず)ねてみた。 「引き上げる()もあらへん。どうせ()てていったんやろ。ボンボンやしな。また買えばええわと思うたんや。気に入る新しいのが、いくらでもあるんやろからな」  (いや)み言われてるで、俺。俺はなんも悪くないのに。言葉尻(ことばじり)とられてる。  でも、なんでか知らん、俺が悪いわけではないのに、すまんかったなと、言うてやりたいような気がした。  やっぱり、おとん大明神(だいみょうじん)は、すでに死んで英霊(えいれい)なってもうたとはいえ、今ではお登与(とよ)一筋(ひとすじ)とはいえ、いっぺんくらいはこいつにちゃんと顔見せて、挨拶(あいさつ)入れとくべきではないのか。そうでなきゃ、卑怯(ひきょう)やないのか、人として。  俺はそんなふうに思うたけども、それも複雑(ふくざつ)なとこやった。(かり)にも実の子である俺が、実の父に向かって、浮気(うわき)しろとは(すす)めにくい。  会うだけ。話するだけ。お前のこと好きやったって、過去形で言うてやるだけ。それならギリギリセーフやろうか。  おかんキレるか。アキちゃん悪い子や、(ゆる)しまへんえ、って、鬼みたいな顔して言うて、三十年くらい(くら)に閉じこめられてまうかな。俺もおとんも。おとんはもっと刑期(けいき)長いか。それとも俺のほうが長いんやろか。怖いわあ。  けど、何か俺には、(おぼろ)様は可哀想(かわいそう)に思えてならへんのや。  ()れてへん。()れてません。俺には水地(みずち)(とおる)が世界一。二番はないです、別格(べっかく)ですから。  でもな、それでもやっぱり可哀想(かわいそう)やねん。こんな綺麗(きれい)(やつ)が、なんでこんな(みじ)めったらしい(うれ)い顔で、待ちぼうけ食わされてんのやろ。  恋もできひん。もう、おとんの式神(しきがみ)でもない。もう俺の使役(しえき)に答えるんやから、俺のほうに来てもうたんやろ。それでもまだ好きなんやったら、こいつは相当(そうとう)、おとんが好きなんやで。 「もう……(おそ)いわ! 先生、なんとかしてくれ。ランドリーの人を今すぐ召喚(しょうかん)!」  寝転(ねころ)がっている俺の肩を素足(すあし)でとはいえ、湊川(みなとがわ)遠慮(えんりょ)無くげしげし()ってきた。  お前という(やつ)は。そんな(やつ)やったんか。(いや)(けい)どこいったんやラジオ。  それに、そんなしょうもない事に神通力(じんつうりき)を使わせようとするな。神やのに、シャツの()()きもできひんのか。万能(ばんのう)やないなあ、神も。  どんどんと、ドアをノックする音がした。湊川(みなとがわ)がそれに、ぴくっと反応した。待望(たいぼう)のランドリーの人が来たと思うたんやろ。  でも、それにしては、今のノックの音は、一応ノックしましたからね的な、言い訳めいた(せわ)しなさやった。  そして誰もドア開けてへんのに、部屋のドアはバーンて開いてた。そういえば湊川(みなとがわ)も、開けてやらんでも部屋に入れた。ただの(かぎ)なんて、外道(げどう)にとっては意味がない。こいつら()め出そうと思うたら、結界(けっかい)張るとか、お(ふだ)()るとか、霊的(れいてき)施錠(せじょう)をせなあかん。  ずかずか入ってきた(やつ)も、当然ながら、そういう手合(てあい)いやった。(かぎ)なんか意味あらへん。堕天使(だてんし)やから。 「先輩、どこですか?」  むっちゃ必死で息を切らして、勝呂(すぐろ)瑞希(みずき)は走ってきた。  そしてまるで、ベッド手前に結界(けっかい)でも張ってあったみたいに、ギクッと棒立(ぼうだ)ちになっていた。  そんな瑞希(みずき)視界(しかい)にあったもん。  ()(ぱだか)でケツ出てる、ベッドに寝転がっている水地(みずち)(とおる)と、それを胸に(すが)り付かせてベッドに寝転がっている本間(ほんま)先輩。  そして、血の付いたシャツ持って、やっと来たよね、あれれ、みたいな期待はずれの顔してる、ベッドに座って素足(すあし)本間(ほんま)先輩を、やんわりげしげししている湊川(みなとがわ)怜司(れいじ)。  確か、瑞希(みずき)はこのとき初対面(しょたいめん)やったよな。ラジオとは。

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