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23-37 アキヒコ
「優 しいなあ、本間 先生は。優 しいついでに、もういっぺんだけ、キスしてくれへんか。キスだけやしな。俺はあいつに、言い忘 れたことがあった。ずっと気になってんねん。お前が代わりに、聞いといてくれへんか」
あかんて言われへんやんか。すみませんが、それはちょっと。水地 亨 がいますんで、なんて。
ごめんごめんて、心の中で水地 亨 大明神 を、平身低頭 拝 み倒 してはいたよ。
堪忍 してくれ。ここで嫌 やて言えるほど、俺は鬼やない。おとんにそこまで似てないらしい。
というか、むしろ、やる気まんまん?
なんも答えへん、ほとんど硬直 してるような俺の目を、朧 は様子をうかがうような、心を透 かし見る目で、じいっと見つめた。長い睫毛 のある目の奥に、昨夜 は無かった、かすかな怯 えのようなもんを、俺は見つけた。
なにを朧 は怯 えてたんやろう。俺の何が怖 かったんや。
そうっと触 れた俺の頬 が、熱いかどうか探 るような、用心深 い指先 やった。
触 れたその手を捕 まえて、俺は目の前で躊躇 うふうな痩身 を、抱き寄 せてキスをした。
おとんはどんなふうに、やったんやろかと思ったけど、そんなん俺に分かるわけない。
どうせ下手 なんやろう、俺は。朧 に言わせりゃ、あかんあかん先生、下手 やなあ、なんやろう。
でも、贅沢 言わんといてくれ。俺はほんまは、おとんやない。俺も秋津 の暁彦 様やけど、おとんとは別人 やねん。
俺がおとんと全然似 てへんと言うたやつは、朧 が初めてやないやろか。
皆、似 てる似 てる、そっくりやって言うねん。
だけど、おとんに抱いて欲しい奴 にとっては、俺がおとんと違うとこばっかり、気に食わんで仕方 ないんやろ。
ヘタレやなあジュニアはと、こいつも思うんや。俺と最初に会 うた頃 の水煙 様とおんなじで。
背を引きつけて舌を絡 めると、朧 は少し顎 上げて、かすかに喘 ぐような息使いやった。
きっと、俺のおとんとキスしてんのやろ。それでもええねん。ちょっとでも、幸せな気分になってくれたら、それでええしな。
さっきみたいなのは、怖 すぎるから。嘘 でも幸せになってほしい。ほんのちょっとの間でも。
息がきれてもうて、俺が唇 を離 すと、朧 は溺 れたような荒 い息やった。
そして俺を見ている目は、なんとなく、正気 でないようやった。
「暁彦 様……」
俺に言うてる訳 やない。そう思うけど、なんでかそれが、ちくりと痛いような気がした。
「好きや……好きや。一緒に行って、俺と幸せになってくれ。お前が居 いひん世界では、俺は生きていかれへん……捨 てんといてくれ……」
胸 苦しいんか、朧 は心臓 のある、貸した俺のシャツを着た左胸のあたりを、長い指で掴 んでいた。
目を伏 せて苦悶 するような顔なのが、ほんまにつらそうで、物の例 えやない、ほんまに心臓痛いんやないかと俺は心配になった。
「捨 てんのやったら、殺してってくれればええのに。俺は悪い鬼やったやろ?」
俺に縋 り付くような目を、朧 はしていた。
でも、それは俺に縋 り付いてる訳 やない。そうやと思う。
なんでやろう。そのはずやのに、俺を見ているような気がする。俺は今、誰なんやろう。
ふと自分が、自分やのうて、昔生きてた秋津 の坊 のような気がしたわ。
そうやったらええのにと、俺は思ったんやろ。
「殺してくれ……先生。暁彦 様の代わりに、お前がやって」
もっと強く抱いてほしいみたいに、朧 は俺の胸に頬 を擦 り寄せてきた。
俺はその背 を、もっと強く抱いた。
強い抱擁 に、朧 が熱いため息をついていた。
その息が白く凝 って、月を朧 に霞 ませる、ぼんやりとした靄 が見えそうなほど、はっきり聞こえる切 ない息遣 いやった。
「あかん。お前を斬 るのは無理や。悪い鬼やないよ。俺のこと助けてくれたやろ? おとんのことも、信太 のことも、助けてやったんやろ。船で結婚式 してた人らも、助けてやったんやんか。なんで助けたんや、悪い鬼なんやったら」
俺が訊 ねると、朧 は俺の指に乱 された髪 のまま、ぼんやりと顔をあげて、見つめてきた。ぼけっと安 らいだような顔やった。
「死んだら惨 めやと思って……せっかくゴールインやのにさ……新婚旅行、ベガスに行くって言うてたし。張 り込んでビジネスクラスの席買 うた言うてたし……それで死んだらアホやなと思って」
そんな世知辛 いこと思うてたんか、お前。想像を絶 してた。
「俺も行きたかった、暁彦 様と……どこでもええから。どこか二人で……」
切 なそうに言う朧 は、疲 れたふうな顔やった。
皆ヘトヘトや、水煙 も朧 も。悪い不実 な坊 のせいで。
「そんなん俺が連 れていってやるやん、どこでも一緒に行ってやるから!」
いつもは凛 として綺麗 に伸 びてた背中が、今はぐんにゃり哀 れっぽいのが耐 え難 く、俺はそれをまた抱きしめて、思いつくまま言うてやった。
「先生は明後日 、蛇 と心中 やのに……? 変やないか、それ?」
論破 したらあかんやんか。適当 でええんとちゃうの。
汗 出るやんか、俺も。
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