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24-12 トオル
ひそひそ話す声が、普通の耳には聞こえんような微 かな音で、俺の耳をくすぐった。
その声はなんとなく、聞き覚えがあるような、品 のええ囁 き声やった。
こっちに話しかけてるんとは違う、たまたま何かの囁 き声を、アキちゃんが持ってる電話が拾 ってもうてるような。それに通話 してる俺のほうにも、同じ囁 き声が、うっかり漏 れて出てきてるような。
つれていこうか、と、その声はひそひそ訊 いていた。
つれていこうか。
つれていこうか。
つれていこうか。
つれていこうか。
まるで心に潜 む悪魔 か鬼 が、ひそやかに誘 うような声やった。甘 く滴 るような。そして邪 な。
つれていこうか、祇園 の夜の赤塀 の、古い褥 のある部屋に。あいつの代わりに横たえて、閉じこめとこか。
せめてもの、罪滅 ぼしに。復讐 に。お前の息子を奪 ってやろか。永遠 に出られへん夜に、閉じこめて。
そうすりゃ良かった、お前の代わりに、この子を盗 ろか、神隠 し。一口ずつ食うたろか、千年かけて。それとも一緒 に、心中 しよか。
そやけど、こいつは、お前ではない。匂 いが違 うてる。この子は煙草 は吸 わんのやなあ、と、その声は、ぼんやり呆 けたような、酔 うて艶 めく声で言うてた。
それが誰の囁 き声か、俺はぞうっと怖気立 ちながら、すぐに分かってた。
朧 や。
あいつは悪鬼 やったと水煙 は罵 っていた。でも俺には、湊川 怜司 はそんなふうに見えへん。ええ奴 のような気がしたんやで。それはほんまに、そう思えたんやけど。
電話から聞こえてくる、ゆらめくような誘 い声は、確かに邪 な響 きを持っていた。ふらふら迷 うてるような。
どっちへ行こうか、波に揺 られて引っかかっている。悪い流れが足引けば、暗い淀 みにはまり込 み、清い流れが手を引けば、明るいほうへ泳いでいける。ちょうど祇園 のそばを流れる鴨川 が、淡 い朝日にきらきら輝 き、夜には月光 を受けて、静かに白くゆらめくように。
「アキちゃんはな、吸わんねん。吸うたことないらしいで。煙 の匂 いが、嫌 いやねん!」
俺は慌 てて、電話の声に返事を返した。それに相手は、ああそうなんやというふうな、深い納得 の呼吸を返してきた。
それはちょっと、吸うた煙 を吐 いている時の、湊川 怜司 を思い出させた。そして、それはまた同時に、俺の中で、奇妙 なイメージも呼び起こした。
真っ暗な月夜に煌々 と満月がかかっている。それに寄 り添 うように、ゆったり飛んでいる、綾錦 のような暗い玉虫色 の龍 が、ふわあっと靄 のような息を吐 く。
綺麗 な龍 やった。三つ爪のある手に、血のように赤い、珠 を握 ってる。
それはほんまに血で出来てるんやないかと思えた。甘く滴 る甘露 のような血。
それは、暗い闇色 の龍 が握 りしめている愛で、呪 いでもある。
アキちゃんの、おとんの血やで。俺は人ならぬ神の目で、それを見抜 けた。
アキちゃんの血の匂 いに、そっくりやけど違う。別の秋津 の覡 の血や。
アキちゃんのおとんは、湊川 怜司 に、自分の血をくれてやってたんやろう。アキちゃんがそうするように、欲しいて言うだけ吸わせてやってた。
湊川 はそれを吸うたけど、使いはせえへんかったんや。あいつは元々、補給 なしでも生きられる。信仰 によって生かされてる神や。血なんか啜 らんでも生きていける。抱き合わんでも死にはせえへん。
それでも吸いたいから吸うたんや。抱き合いたいから、そうしてた。そして吸い取った血を、今でも持ってる。まるで宝玉 のような珠 にして、握 りしめてる。それが愛か、呪 いか、自分でもわからへん、とにかく手放 したくない、執念 として。
あいつ、龍 やったんや。月に寄 り添 う龍 。それで、朧 や。
アキちゃんのおとんは、あいつの正体 を見抜 いてたんやろう。龍 やって。それで朧 と呼んでいた。
それなら月は、誰やったんやろ。
俺にとっての、アキちゃんは、お月さんみたい。満月の発 する明るい月光みたいなオーラを、いつも纏 ってる男やねん。アキちゃん自身が、お月さんみたい。
アキちゃんのおとんも、生きてた頃には、そうやったんか。お月さんみたいやったか。靄 を吐 く龍 の吐息 に濡 れて、ぼんやり霞 む、朧 の月か。
その次の朝には、雨が降るって、昔からそう言われてる。朧 に煙 る傘 着た月は、翌朝 には雨が降るという、予兆 やねん。
それは別れの涙雨 やでと、くすくす笑った酔 うてる声が、電話の向こうで答えてた。
許 した。雨が降っていたので。いっしょに行くと約束 をした、旅立ちの日の夜に、あいつは裏切 り来なかった。
でも雨が、篠突 くような激 しい雨が降っていて、それがまるで泣いてるように見えたので、あいつも悲しいんや、ほんまは行きたいんやと思うことにして、許 してやった。
飛んできた文 は、濡 れてボロボロになっていて、ぽつぽつ喋 り、ろくに物を言わへんかったけど、それは濡 れたせいやないかもしれへん。もともとそんなふうに、伝言 されたせいかもしれん。
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