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25-5 アキヒコ
俺は自分が愛する誰 も彼 もを幸せにしたいけど、それで亨 が悲しいんやったら、迷 う余地 はない。俺は自分が鬼 やということを、受け入れればいいだけのこと。
それでも俺にはまだまだ無理やったんか。自 ら進んで鬼 になるのは。どうにも詰 めが甘 かった。
ほうっておかれへんかった。自分の吐 いた言霊 に、傷 ついてるはずの水煙 のことを。
もしもまた白い血を流し、苦しんでるようやったら、せめてその傷 くらい、治しといてやらな、あまりにも可哀想 やし、無責任 やと思えたんや。
「いっぺんだけや、亨 。俺のわがまま聞いてくれ。水煙 にかけた呪 いを、解 いてやりたいねん。夢 の中やったら、水煙 はいつも、人の姿 をしてた。こいつが太刀 なのは、人界 でだけなんやないか」
せやしそこまで追っていけば、水煙 も、拒 みようがないやろう。怪我 をしてれば、それが見える。
傷 ひとつ無い鋼鉄 の白刃 ではない、青白い神の姿 で、俺の前に顕 れる。
亨 は俺に頷 いていた。同じ読みらしい。
「そうかもしれへんなあ、アキちゃん。そんなん俺に訊 かんでも、さっきから、別にええよって言うてるやん。俺も水煙 のことは心配なんやで。もはや家族みたいなもんやないか。許 してやれ、水煙 のこと。許 してくれって、追いかけてって謝 ってきたらええよ。呪 いもちゃんと解 いてやれ」
まだまだ子供の寝 るような時間やけど、もう寝 るかって、亨 は苦笑 して訊 いた。
まだ晩飯 も食うてへん。今時、子供でも寝 てないような時間やったんやけどな。
「眠 れるもんやろか」
「気合 いしだいやろ。俺が眠 らせたろか?」
けろりと言うてる亨 の話に、どういう意味かと、俺は内心ぎょっとした。何か気まずいような話か。
そうやない。亨 には、人に催眠 をかける力があるらしい。蛇 の毒牙 で、ちょこっと噛 んでやって、ことりと眠 らせる。そういう技 があるんやって。
そういえば、前に亨 が死にかけて、人界 と冥界 の合間 を彷徨 うてるような時、ベッドで抱 き合 うてた俺を、亨 はちくりと噛 んできた。
その次の瞬間 、俺は泥 のように深い眠 りに落ちていた。あれは亨 の仕業 やったんや。
「頼 んでもええか」
遠慮 の塊 みたいな小声 で、俺は頼 んだ。
亨 はますます苦み走った顔をした。
「ええよ。ほんなら部屋 戻 ろうか。アキちゃんおねんねやしな。俺と犬とは、遠慮 しようか。瑞希 ちゃん、腹 減 ってんのやったら、俺が飯 でも食いに連れ出してやってもええし……」
ちらりと背後 に立つ、じっとうつむく姿 の瑞希 を見やって、亨 は少しの間、考えているような沈黙 をした。
「なあ、噛 まれるついでやし、アキちゃん、犬にも餌 やれば? ラジオにも吸 わせたんやし、犬があかんということはないやろ。ワンワン、飢 え死 にしてまうで。せめて血ぐらい、くれてやらな」
亨 の話に、ぎょっとしたんは、俺やのうて、瑞希 の方やった。青い顔して、瑞希 は慌 てて、悲壮 な目を上げた。
「いらへん、俺は。血なんか吸 わへん。飯 食えば腹 ふくれるよ」
着ていたシャツの裾 を握 って、瑞希 は亨 に言 い訳 していた。
ふふんと意地悪 そうに、亨 は小さくそれを笑い飛ばしていた。
「嘘 やん。俺はどんだけ飯 食うても飢 えてるまんまやで。ちょっとの足 しにはなるかもしれへんけど、そんなん焼け石に水やろ。お前も犬人間やった三万年前とはちがうんや。霊位 も上がって、ビッグな神様になったんやしな、生身の時代はもう終了 や。普通 の飯とかそういうような、みみっちい補給 やと足りへんのやで。もっと精 のつくもんを食え。また犬死にしたくないんやったらな」
呆 れたように言うて、亨 は瑞希 を振 り返 っていた。俺の手を握 りしめたまま。
その指はぎゅっと強く、俺うの手を握 っていたけど、温かかった。冷たく震 えてはいなかった。
それでも、永遠 に離 さへんみたいな、強い手やった。
「あのなあ、瑞希 ちゃん。吸血 は基本 やねん。確 かに外道 くささは満点やけど、しゃあないやろう、ほんまに外道 なんやから。ドッグフード食うてりゃ満腹 やった、ワン公の頃 とは違 うんやって。逃 げてもしゃあない。ラジオも言うてたやろ、我慢 しすぎて狂 ったら、元も子もないし。人を襲 って食うわけやないんや。罪 にはならへん」
亨 にそう言われても、瑞希 はじっとうつむいて、目をそらしていた。ホテルの廊下 に敷 かれた赤い絨毯 の、織 り目 を数えているような、真剣 な目やった。
それをしばらく眺 めていても、返事がないのを確信 すると、亨 はやれやれみたいな深いため息をついていた。
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