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25-17 アキヒコ

 美しい犬やと、必死で血を()めている、瑞希(みずき)(あせ)ばんだ顔を見て、俺は思った。  お前が(もど)ってきてくれて、(うれ)しかったわ、俺は。  それが自分の死ぬ直前の、最後の最後やったとしても、少しは罪滅(つみほろ)ぼしができればええのにと、俺も願ってた。  もっと本格的(ほんかくてき)(つみ)(ほろ)ぼせたら良かったのやけどな、それをやると、別の新しい(つみ)芽生(めば)えるから。  たとえば今、俺に(すが)()いている(とおる)が、ひっそり()いてるようなのも、ほんま言うたら可哀想(かわいそう)。  (だま)()んでる水煙(すいえん)が、もしかすると今も、苦痛(くつう)()えてるかもしれへんことも、あまりに(あわ)れや。 「(とおる)……(ねむ)らせてくれ。瑞希(みずき)はほっといてやって。()いたいだけ、()えばええから」 「死にそうなったら止めとくわ」  俺の(むね)に、強く(ほお)()()せて、(とおる)(いや)みったらしく、そう言うた。  でもその声にある強い愛情(あいじょう)気配(けはい)が、可愛(かわい)げのない(ささや)き声も、可愛(かわい)いように(ひび)かせた。 「なあ……アキちゃん」  ちくりとやるため、身を起こし、(とおる)は犬にじゃれつかれている俺を、じっと()んだ目で見つめた。 「水煙(すいえん)のこと、好きか」  切なそうに、(とおる)は俺にそう()いた。  ()かなくても、知ってんのやないかと思えた。  でも(たず)ねられたら、俺は答えなあかん。俺の神さんが、そう()いてんのやし、(うそ)はつかれへん。 「好きや」  (いた)いなあって、少し朦朧(もうろう)とした。  自分も(いた)いけど、瑞希(みずき)に食われんのもけっこう(いた)い。 「俺より、好きか」 「……いいや。お前のほうが好きや」  少し考えてから、俺は心に()いたとおりの答えを返した。  (とおる)はそれに、やんわり微笑(ほほえ)んでいた。 「それでも好きなんか。水煙(すいえん)とか、この犬が?」 「そうや」  俺はぼんやりと、そう答えた。そこが難問(なんもん)やねん。 「それは……(こま)ったなあ……」  苦笑(くしょう)して、(とおる)はそう、感想を()べた。俺は視線(しせん)だけで、それに(うなず)いた。  (こま)ったなあ。俺はいったい、どないしたらええんやろ。  どないしたらええか、お前も一緒(いっしょ)に考えてくれ。  俺にはもう、どうすりゃええのか、わからへん。  (とおる)は犬に(むさぼ)られている俺の首の、反対側を、ちくりと()んだ。  それは麻酔(ますい)のように、よく()いた。  ことりと俺は(ねむ)った。(むさぼ)られる(いた)みも、すっとどこかへ消え去った。  ほんまやったら、もうしばらく、食われる(いた)みに()えるべきやったか。  俺はその程度(ていど)では(あがな)えないような苦痛(くつう)を、勝呂(すぐろ)瑞希(みずき)(あた)えてきたか。  因果応報(いんがおうほう)というには、これでは不足か。  では、それは、またの機会(きかい)に。  俺にまだ、機会(きかい)があれば。何度でもお前に、食い殺されてやろう。それでお前の気が()むようならな。  でも今夜は、ほんまやったら水煙(すいえん)のための夜や。  待たせて()まん。いつもそうやな。  水煙(すいえん)すまない、水煙(すいえん)すまないで、(あま)えてばかりで、俺はちっとも、進歩しいひん。  その深い(ねむ)りの底で、俺は(ゆめ)を見た。  深く深く(ねむ)り、深く深く(しず)みゆく、青ざめた無意識(むいしき)の、(そこ)(そこ)で見る、(ゆめ)の世界。  ふっと現実(げんじつ)が遠ざかり、音も色も、感じひんようになる。  天蓋(てんがい)(かがみ)にうつる、青ざめた自分の顔も、(まくら)()める、()()な血の色も、そして俺の手を(にぎ)る、水地(みずち)(とおる)(はだ)(ぬく)もりも、(すべ)て遠ざかって消えてゆく。  そして俺は深い水底(みなぞこ)へ落ちていく、無防備(むぼうび)(たましい)だけの存在(そんざい)になる。  肉体を(はな)れ、異界(いかい)へと旅をする、理屈(りくつ)もしがらみもない、()()しの(たましい)に。  普段(ふだん)なら、俺は滅多(めった)(ゆめ)は見いひん。  おかんに、そう(しつ)けられた。  うっかり(こわ)(ゆめ)など見てもうて、そんな(ゆめ)怪物(かいぶつ)を、俺が現世(げんせ)に連れて戻らへんように。  深い(ねむ)りの国の迷路(めいろ)にはまりこんで、目覚(めざ)めんようにならへんように。  俺は(ゆめ)も見ず、朝までぐっすり(ねむ)って起きる。毎晩(まいばん)ずっと、その()(かえ)し。  でも、たまには見ることがある。  その(ゆめ)は、ただの(ゆめ)やない。  何かの予兆(よちょう)であるとか、現世(げんせ)異界(いかい)端境(はざかい)にある、別の世界での出来事(できごと)を、俺が(ゆめ)やと思うてるだけのこと。  それは(たし)かに(ゆめ)やけど、(ゆめ)(うつつ)(ちが)いというのは、なんなんやろ。夜見る(ゆめ)って、一体、なんなんやろうなあ。  (たましい)が体から()()して、どこか(ちが)う世界へと、旅しているんやという人もいてる。  それは死と()てる。あるいは死が、(ねむ)りに()ているのかもしれへんなあ。  ギリシア神話の死の神さんは、タナトスというらしい。  そして(ねむ)りの神はヒュプノスという。  その二人(ふたり)は兄弟で、だから死と(ねむ)りとは、兄弟のごとくによく()てる。目覚めるか、もう二度と目覚めへんかの、差があるだけで。  それは肉体にとっては、大きな差やけども、(たましい)にとっては、どうやろか。  実は大した(ちが)いは、ないのかもしれへんで。  それやし(ゆめ)の世界というのは、もしかすると、死後にいくところと、どこかで通じているのかもしれへん。  言わば地獄(じごく)一丁目(いっちょうめ)。もしくは天国の門前町(もんぜんまち)か。  それとも(さい)河原(かわら)で、三途(さんず)(かわ)(わた)る船を待つ、そういう場所に近いのかもな。

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