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25-19 アキヒコ
せやし、言うなればそれは、人魚姫 みたいなもんか。
海の魔性 と取引きをして、尾鰭 の代わりに、足を貰 うた。
それで人のような姿 にはなったものの、その足で立つと、刃 を踏 むような痛 みが走る。
そんな不良品 の足で、人魚姫 はさぞかし不自由したやろう。
痛 みに耐 えて、姫 は人間の王子と踊 ったり、散歩 したりと頑張 ったけども、その男は結局、他 の相手に惚 れてもうて、人魚姫 は哀 れ、海の泡 と消えた。
そういう契約 やったからや。恋愛 が成就 しなければ死ぬ。それが人魚姫 の伝説 やろう?
俺はその話を、ただの哀 れっぽいお伽話 と思っていたけど、ぼけっと座 って月を見ている水煙 の、青白い姿 を眺 めると、あながち作り話でも、ないんやないかと思えたわ。
だって何となく、その話の哀 しさには、現実味 がある。
水煙 も、もともとは海底 にいて、人間の男に惚 れてもうて、その男の血筋 のために尽 くしてやったんやけども、いろんな苦痛 を堪 えて耐 えたのも全 て虚 しく、最後の最後で生まれた俺は、水煙 様を裏切 った。
他 のにぞっこん惚 れ込 んでもうて、水煙 を自分の連 れ合 いには選ばへんかった。
一体その物語のオチには、何があるんやろう。
水煙 も海の泡 になって、消えてもうたりするんやろうか。
そんな不吉 な符合 を感じて、俺は嫌 な気分やった。
俺が眺 める水煙 の姿 が、痛々 しかったせいもある。
俺はまた、やってもうたわ。おんなじ事を。
水煙 にまた、呪 いをかけた。
やったらあかんて、おかんにも、水煙 にも言われ、自分の言葉には呪力 があると、よう分かっているつもりやったのに、また言うた。
呪 いを含 んだ不吉 な言葉を吐 いて、水煙 を傷 つけてもうてた。
その新しい呪 いはまるで、真っ黒い網 のように見えた。
絡 みつく黒い、呪 われた網 の目が、水煙 の青い肌 に張 り付 いて、食 い込 むように締 まり、ところどころで白い血を流させていた。
水煙 はその暗い影 のような網目 の呪 いから、逃 れようとはしてへんかった。
ただぼんやり月を見て、波打 ち際 に背 を向けて、懐 かしいという、悲しそうな目をしてた。
「堪忍 してくれ、水煙 ……」
俺はいつの間にか水煙 の傍 にいて、月を見ている顔を見ていた。
これは夢 なんやと、その時思った。自分が歩いたような気がしいひん。
俺はいつのまにかそこに居 て、白い砂 を張 り付 かせた裸体 の水煙 の青い肌 が、ようく見えるような近さになってた。
砂浜 に座 り込 んで見ると、水煙 の小さく華奢 やったはずの手が、赤黒く焼 け焦 げ錆 び付 いたような、かぎ爪 のある荒 れた手へと変わってた。
それがまるで鬼 の手のようで、水煙 には似合 わへん。
なんでこんな風 になってもうたんやろうと、俺は後悔 して、その手を握 った。
なんとか元に戻 せへんもんかと、自分の手の中に包みこんで、冷え切った鉄 のような、波に濡 れている水煙 の指を、俺はゆっくり温めようとした。
「なんで来たんや、アキちゃん」
黒い目で、俺の目を見て、水煙 は不思議そうに訊 いた。
お前がここに来るはずはないというふうに、俺には聞こえた。
両方の手を一緒 に包んでも、すっぽり手の中に収 まるぐらい、水煙 の手は小さい。
体も小さいし、この青い人型 でいる時の水煙 は、ずいぶん華奢 で、そして小柄 やった。
抱 き上 げると軽くて、ぐんにゃりしてて、力無い。守ってやらんと生きてられへん、そういうモンに見えるけど、それでも霊威 が漲 っていて、近寄 りがたい。そういう相手に見えていた。
「お前を抱 いて寝 たからやろう。これは夢 やと思うんやけど……」
「夢 やろう。アキちゃん。しかしこれは、お前のではない。俺の夢 やで」
俺は水煙 の夢 に、勝手に押 し入 っていたらしい。
肌 を合わせて寝 たせいか。水煙 が俺を、喚 んだんか。
それとも俺が、押 し入 ったんか。
俺にはそういう力があるようなんや。自由に位相 を行 き来 する力。他人の夢 に入る力や。
夢 も一種 の異界 で、別の位相 やというんやったら、こちらからあちらへ、渡 る力のある覡 である俺にとって、行き来可能 な場所やったんや。
皆 も気をつけて。俺に侵入 されへんように。
夢 には鍵 は、かけられへんのやしな。うっかり心を許 したら、アキちゃん夢 に、出てくるかもやで?
それはまあ、冗談 。冗談 やって。
プライバシーやろ。普通 はやらへんよ。
意味なく他人様 の夢 に、押 し入 ったりはしいひん。
この時かて無意識 にや。わざとやない。たまたま行けた。ビギナーズラックやで。
それとも、これは、太刀 と当主 の間にある縁 が、お互 いを呼 び合 うせいやったんか。
あるいは、想 い合う同志 の絆 の糸が、お互 いの魂 を、夢 の異界 で引 き寄 せ合うのか。
俺は水煙 に会いたかったんや。
物でもなく、太刀 でもない、人のような姿 をしていた水煙 に、もういっぺん会 うて、謝 りたかった。
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