519 / 928

25-19 アキヒコ

 せやし、言うなればそれは、人魚姫(にんぎょひめ)みたいなもんか。  海の魔性(ましょう)と取引きをして、尾鰭(おひれ)の代わりに、足を貰(もろ)うた。  それで人のような姿(すがた)にはなったものの、その足で立つと、刃(やいば)を踏(ふ)むような痛(いた)みが走る。  そんな不良品(ふりょうひん)の足で、人魚姫(にんぎょひめ)はさぞかし不自由したやろう。  痛(いた)みに耐(た)えて、姫(ひめ)は人間の王子と踊(おど)ったり、散歩(さんぽ)したりと頑張(がんば)ったけども、その男は結局、他(ほか)の相手に惚(ほ)れてもうて、人魚姫(にんぎょひめ)は哀(あわ)れ、海の泡(あわ)と消えた。  そういう契約(けいやく)やったからや。恋愛(れんあい)が成就(じょうじゅ)しなければ死ぬ。それが人魚姫(にんぎょひめ)の伝説(でんせつ)やろう?  俺はその話を、ただの哀(あわ)れっぽいお伽話(とぎばなし)と思っていたけど、ぼけっと座(すわ)って月を見ている水煙(すいえん)の、青白い姿(すがた)を眺(なが)めると、あながち作り話でも、ないんやないかと思えたわ。  だって何となく、その話の哀(かな)しさには、現実味(げんじつみ)がある。  水煙(すいえん)も、もともとは海底(かいてい)にいて、人間の男に惚(ほ)れてもうて、その男の血筋(ちすじ)のために尽(つ)くしてやったんやけども、いろんな苦痛(くつう)を堪(こら)えて耐(た)えたのも全(すべ)て虚(むな)しく、最後の最後で生まれた俺は、水煙(すいえん)様を裏切(うらぎ)った。  他(ほか)のにぞっこん惚(ほ)れ込(こ)んでもうて、水煙(すいえん)を自分の連(つ)れ合(あ)いには選ばへんかった。  一体その物語のオチには、何があるんやろう。  水煙(すいえん)も海の泡(あわ)になって、消えてもうたりするんやろうか。  そんな不吉(ふきつ)な符合(ふごう)を感じて、俺は嫌(いや)な気分やった。  俺が眺(なが)める水煙(すいえん)の姿(すがた)が、痛々(いたいた)しかったせいもある。  俺はまた、やってもうたわ。おんなじ事を。  水煙(すいえん)にまた、呪(のろ)いをかけた。  やったらあかんて、おかんにも、水煙(すいえん)にも言われ、自分の言葉には呪力(じゅりょく)があると、よう分かっているつもりやったのに、また言うた。  呪(のろ)いを含(ふく)んだ不吉(ふきつ)な言葉を吐(は)いて、水煙(すいえん)を傷(きず)つけてもうてた。  その新しい呪(のろ)いはまるで、真っ黒い網(あみ)のように見えた。  絡(から)みつく黒い、呪(のろ)われた網(あみ)の目が、水煙(すいえん)の青い肌(はだ)に張(は)り付(つ)いて、食(く)い込(こ)むように締(し)まり、ところどころで白い血を流させていた。  水煙(すいえん)はその暗い影(かげ)のような網目(あみめ)の呪(のろ)いから、逃(のが)れようとはしてへんかった。  ただぼんやり月を見て、波打(なみう)ち際(ぎわ)に背(せ)を向けて、懐(なつ)かしいという、悲しそうな目をしてた。 「堪忍(かんにん)してくれ、水煙(すいえん)……」  俺はいつの間にか水煙(すいえん)の傍(そば)にいて、月を見ている顔を見ていた。  これは夢(ゆめ)なんやと、その時思った。自分が歩いたような気がしいひん。  俺はいつのまにかそこに居(い)て、白い砂(すな)を張(は)り付(つ)かせた裸体(らたい)の水煙(すいえん)の青い肌(はだ)が、ようく見えるような近さになってた。  砂浜(すなはま)に座(すわ)り込(こ)んで見ると、水煙(すいえん)の小さく華奢(きゃしゃ)やったはずの手が、赤黒く焼(や)け焦(こ)げ錆(さ)び付(つ)いたような、かぎ爪(づめ)のある荒(あ)れた手へと変わってた。  それがまるで鬼(おに)の手のようで、水煙(すいえん)には似合(にあ)わへん。  なんでこんな風(ふう)になってもうたんやろうと、俺は後悔(こうかい)して、その手を握(にぎ)った。  なんとか元に戻(もど)せへんもんかと、自分の手の中に包みこんで、冷え切った鉄(てつ)のような、波に濡(ぬ)れている水煙(すいえん)の指を、俺はゆっくり温めようとした。 「なんで来たんや、アキちゃん」  黒い目で、俺の目を見て、水煙(すいえん)は不思議そうに訊(き)いた。  お前がここに来るはずはないというふうに、俺には聞こえた。  両方の手を一緒(いっしょ)に包んでも、すっぽり手の中に収(おさ)まるぐらい、水煙(すいえん)の手は小さい。  体も小さいし、この青い人型(ひとがた)でいる時の水煙(すいえん)は、ずいぶん華奢(きゃしゃ)で、そして小柄(こがら)やった。  抱(だ)き上(あ)げると軽くて、ぐんにゃりしてて、力無い。守ってやらんと生きてられへん、そういうモンに見えるけど、それでも霊威(れいい)が漲(みなぎ)っていて、近寄(ちかよ)りがたい。そういう相手に見えていた。 「お前を抱(だ)いて寝(ね)たからやろう。これは夢(ゆめ)やと思うんやけど……」 「夢(ゆめ)やろう。アキちゃん。しかしこれは、お前のではない。俺の夢(ゆめ)やで」  俺は水煙(すいえん)の夢(ゆめ)に、勝手に押(お)し入(い)っていたらしい。  肌(はだ)を合わせて寝(ね)たせいか。水煙(すいえん)が俺を、喚(よ)んだんか。  それとも俺が、押(お)し入(い)ったんか。  俺にはそういう力があるようなんや。自由に位相(いそう)を行(い)き来(き)する力。他人の夢(ゆめ)に入る力や。  夢(ゆめ)も一種(いっしゅ)の異界(いかい)で、別の位相(いそう)やというんやったら、こちらからあちらへ、渡(わた)る力のある覡(げき)である俺にとって、行き来可能(かのう)な場所やったんや。  皆(みな)も気をつけて。俺に侵入(しんにゅう)されへんように。  夢(ゆめ)には鍵(かぎ)は、かけられへんのやしな。うっかり心を許(ゆる)したら、アキちゃん夢(ゆめ)に、出てくるかもやで?  それはまあ、冗談(じょうだん)。冗談(じょうだん)やって。  プライバシーやろ。普通(ふつう)はやらへんよ。  意味なく他人様(たにんさま)の夢(ゆめ)に、押(お)し入(い)ったりはしいひん。  この時かて無意識(むいしき)にや。わざとやない。たまたま行けた。ビギナーズラックやで。  それとも、これは、太刀(たち)と当主(とうしゅ)の間にある縁(えん)が、お互(たが)いを呼(よ)び合(あ)うせいやったんか。  あるいは、想(おも)い合う同志(どうし)の絆(きずな)の糸が、お互(たが)いの魂(たましい)を、夢(ゆめ)の異界(いかい)で引(ひ)き寄(よ)せ合うのか。  俺は水煙(すいえん)に会いたかったんや。  物でもなく、太刀(たち)でもない、人のような姿(すがた)をしていた水煙(すいえん)に、もういっぺん会(お)うて、謝(あやま)りたかった。

ともだちにシェアしよう!