528 / 928

25-28 アキヒコ

「アキちゃん、もう、いやや。辛抱(しんぼう)でけへん。そこはやめといて」  内腿(うちもも)の、足の付け根あたりを()めてると、水煙(すいえん)(するど)い悲鳴で、そう言うた。  わなわな(あし)(ふる)えてた。感じるところらしかった。  そしてそこに、(きず)はなかった。なんで俺、ここを()めてんのやろ。変やない?  変やねん……。俺はもう、頭が変になってきてる。  ()きたい、水煙(すいえん)。  たった一度きりでも、当主(とうしゅ)になれば、(みな)それを(ゆる)されたんやろう。なんで俺はあかんの。  おとんなんか何回もやったんやろう。なんで俺はゼロ回なんや。  そんなの、不公平(ふこうへい)やないか。  朦朧(もうろう)としてきた頭で、俺はそう思っていた。  何か変やで。自分が(だれ)なのか、よう分からんみたいになってきた。  水煙(すいえん)が好き。その気分に乗っ取られてて、何も考えられへん。  夢中(むちゅう)になりそう。(おぼ)れそうなのや。  ()(さお)な、泡立(あわだ)つ白い海の波濤(はとう)()まれ、不安でたまらへん。  助けて。(だれ)か助けてくれへんかったら、俺は波に()まれてしまう。  また、あの暗い、深い海の底に消える、ちっぽけな(あわ)のようなもの。  たまたま海神(わだつみ)の、ちょっとした気まぐれに、月読(つくよみ)が力を()してやり、願いを()(とど)けた。  今ではもう、地球の海へと()ってもうた、かつての月の眷属(けんぞく)の、たっての(せつ)ない願いやったから。  波間(なみま)から、青白い手に(ひろ)い上げられる幻覚(げんかく)が、俺の頭の奥深(おくふか)くに(よみがえ)り、その(うで)()()められる安堵感(あんどかん)で、俺は深いため息をついていた。  水煙(すいえん)。  今は俺の(うで)()かれ、守られてるようにすっぽり(おさ)まってしまう華奢(きゃしゃ)な体やけど、かつて、それは俺を守ってくれる、世界の(すべ)てやった。  (はら)()ったら血をくれる。それには(あま)い、(ちち)(みつ)の味がする。  怪異(かいい)()()ち、海から生まれ出た俺を、人ではない(おに)やと(おそ)れ、(だれ)(かれ)遠巻(とおま)きに、(あが)めるやら(きら)うやらで、何の(ふく)みもなしに、親しく付き合うてくれる者は(だれ)もおらへん。  (おさな)子供(こども)の時ですらそうやった。  (おさな)子供(こども)らやからこそ、理屈(りくつ)ではなく心のどこかで、俺の普通(ふつう)でなさを察知(さっち)していた。  まともな子やない。神の(たぐい)や。人でなし。近づいたら(たたり)(たた)るかもと、(ささや)かれて終わり。いつも(ひと)りぼっちや。  それでもかまへん。  俺には水煙(すいえん)()るからな。  愛してくれる。お前は(いと)しい子やと言うて、()きしめてくれる。  でも俺が()しいのは、その愛やないんや。  お前が鍛冶場(かじば)の男を見る時の、その愛や。  ()()うて(あえ)ぐ、その愛なのや。  火のように()える、その愛。熱く(とろ)けて一体になる、その愛なのや。  けど水煙(すいえん)は、その愛ではないと言うてた。  (うそ)や。  (うそ)をついてる。  (よろこ)んでたはずや。無理矢理(むりやり)やったが、それでも(よろこ)んでたはずや。  (いや)なら()げられたやろう。()げようとした。  それも(うそ)。まさか本心(ほんしん)やない。  だって、お前が好きや、()きたいと言うたら、水煙(すいえん)(ふる)えた。  それはきっと、(よろこ)びの(ふる)えや。そうに(ちが)いない。  そうでなきゃ、なんで力ある神が、たかが人の子の(のろ)いにかかる。  俺のほうが強いとでもいうんか。月から落ちてきた神よりも、たかが半神半人(はんしんはんじん)の、海の(あわ)から生まれ出た俺のほうが、通力(つうりき)があると?  お前はほんまに、俺を(こば)んでるのか。俺が(きら)いか。愛せへんのか。  俺に()かれるのが、そんなに(いや)か。  ()がさへん。  ()げるために生えてる足なら、()えてしまえと(しゅ)を放ったら、水煙(すいえん)は歩けへんようになった。  (あらが)うための(うで)なら、()えてしまえと(のろ)ったら、水煙(すいえん)非力(ひりき)になった。  そうなりゃ、もう、赤子(あかご)の手を(ひね)るようなもん。  水煙(すいえん)が、俺のおとんやと思うてる男と(ちぎ)った砂浜(すなはま)で、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)(おか)してやった。  それでも文句(もんく)は言わへんかったで。おとんのことなんか、(わす)れてしまえと命じたら、あっさり(わす)れた。  それからずっと、俺のもんなのや。俺は水煙(すいえん)と、永遠(えいえん)に生きていく。神やから。俺も神やから、老いぼれて死ぬわけがない。  何かの間違(まちが)いや、俺が死ぬなんて。ずっと(わか)いままで、三百年も生きていたのに。そんな一生に、まさか、終わりがあるとは……。  俺の身の内で語る声が、深い無念(むねん)の息をつき、俺はそれに耳を(かたむ)けていた。  これが(おに)や。うちの家に、俺の血の中にずっといた、(おに)の正体で、こいつが(すべ)ての元凶(げんきょう)やったんや。  俺を乗っ取ろうとしている。  俺が血筋(ちすじ)(すえ)に生まれた不死人(ふしじん)で、(げき)としても、申し分がない。  水煙(すいえん)と、永遠(えいえん)に生きていける。愛してもらって。ずっと()()うて。  俺がお前を愛してるって言っても、水煙(すいえん)はもう(こば)みはしいひんやろう。俺のことが、こいつは好きでたまらへんのや。  ()いてほしいって、(もだ)えてる。たった今この(うで)の中にある青い体が、もどかしそうに(もだ)えてる。俺と()()いとうて。  熱く深く入り交じる、神と(げき)との和合(わごう)。とうとう何の(わだかま)りもなく、心底(しんそこ)から求めてくれるやろう。()いてくれって。 「アキちゃん……」

ともだちにシェアしよう!