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25-42 アキヒコ

 もう、いっそ、そんなんでもいい。それで俺の、バカになってる貞操観念(ていそうかんねん)(よみがえ)るんやったら。そんな(のろ)いにでもかかりたい。  でも、どうしよう。今、俺の心の中にある、この気持ちのやり場は。  海辺の朝日を浴びて、気恥(きは)ずかしげに微笑(ほほえ)んでいる、水煙(すいえん)(うつく)しかった。  俺にはその姿(すがた)は、ひどく(いと)しい、後朝(きぬぎぬ)の別れを()しむ、(いと)しい恋人(こいびと)姿(すがた)やった。 「もうすぐ朝や。長い(ゆめ)やった。お前はそろそろ、(もど)ったほうがいい」  そうは言いつつ、水煙(すいえん)はまだ、俺の(むね)(ほお)()()てていた。  長い(かみ)(から)感触(かんしょく)がした。その(やわ)らかな体を(いだ)いてると、いつまでもそうしていたいような気がする。  別れが(せつ)ないんや。決然(けつぜん)として、別れを()げる水煙(すいえん)様の、(うれ)いを帯びた()みが(せつ)ない。 「どないして(もど)るんか、わからへん」  未練(みれん)の残る声をして、俺はそう答えてた。  実は、どうやって来たのかも、わかってへんかった。  ここからちゃんと訓練(くんれん)したら、自由に他人の(ゆめ)やら、自分の(ゆめ)やらを、行ったり来たりできるようになるんやけどな、これが初回(しょかい)や。俺も(こま)った。 「大丈夫(だいじょうぶ)や。そのうち()れる。でも、あんまり遊び歩いたら、あかんのやで」  にっこり(あき)れたように言い、水煙(すいえん)は起きあがらせた俺の(ほお)を、自分も砂浜(すなはま)(すわ)って、やんわりと()でた。  その手がゆっくり俺の(むね)まで()りていき、その(おく)(ねむ)(たましい)を、じっと見つめているような目で、水煙(すいえん)()(だま)っていた。 「アキちゃん。ありがとう。お前のような子が、血筋(ちすじ)(すえ)にいて、良かったな。絵描(えか)きになりたいやなんて……お前はほんまに、(よく)のない。きっと、刀師(とじ)の血やなあ」  うふっ、と思い出したように笑い、水煙(すいえん)はなんか、惚気(のろけ)たらしかった。  俺はそれに、正直あんぐりしてた。  信じられへん、なんて気の多い神や。まだ好きなんか、その刀鍛冶(かたなかじ)。  ほんまにもう、しょうがない。俺や俺のご先祖(せんぞ)様たちが、どんな(おも)いでお前を見てたか、知らんのか。 「()かんでええよ。お前が好きや。今はお前が好き。アキちゃん……暁彦(あきひこ)……俺を、(ゆる)してくれ。俺はこの子が、好きでたまらへん。もう我慢(がまん)ができへんのや。俺にも(こい)をさせて。(おぼ)れたいんや。もう二度と、冷めない(こい)に……不実(ふじつ)な俺を、(ゆる)してくれ」  俺の(むね)に、耳を()()てて、水煙(すいえん)はそう()びた。  俺に言うてる(わけ)やない。たぶん、別の(だれ)かにやろう。  それに怨念(おんねん)(へび)が、ゆっくり身悶(みもだ)えるようなのが、俺には分かった。  水煙(すいえん)の、神の目には、それがちゃんと見えていたんやろうか。  なんや。バレバレやったんか。俺もおとんも、たぶんその先代(せんだい)先代(せんだい)も、水煙(すいえん)には意地(いじ)でも秘密(ひみつ)にしとったのに、ほんまはバレバレやったんや。  なんや。そうか。俺もおとんも、かっこわる!  水煙(すいえん)は、突然(とつぜん)のように、(つか)仕草(しぐさ)をした青い手を、俺の(むね)の中に()()んできた。  まるで俺が()けてる幽霊(ゆうれい)で、手がつきぬけてまうみたいに、水煙(すいえん)(うで)(ひじ)のあたりまで、俺の(むね)の中に(はい)()んでる。  そして、それがまた()()られた時には、水煙(すいえん)はその手に、一(ひき)(へび)(つか)んでた。  小さい(へび)やった。(はげ)しくのたうち、首根(くびね)っこを()さえている青い神の手に、食らいつこうと(あば)(まわ)った。 「悪い(へび)やし、殺してしまおう」  水煙(すいえん)はそう、暗い目で、俺に念押(ねんお)しをして、そのまま自分の手で、(へび)(ひね)るつもりのようやった。  俺はなんでか、それに(あわ)てた。  その(へび)正体(しょうたい)は、あの怨霊(おんりょう)やないか。  俺の中で、ぶつくさ言うて、(あわ)れっぽく(おこ)っていた怨霊(おんりょう)や。  あれが初代(しょだい)の男。あるいは、それに(つら)なる代々の男の呪詛(じゅそ)()(かた)まった(へび)なのや。  うちの血筋(ちすじ)が生んだ(おに)やろう。  泣いて()るべしと、水煙(すいえん)はそう思ったんかもしれへんのやけどな。でもそれは、ちょっと可哀想(かわいそう)やないか。  悪気があるわけやない。お前のことが、好きで好きでたまらんだけの、(あわ)れな(へび)さんなんやで?  他人と思えへん。ていうか他人やない。うちの初代(しょだい)や。ご先祖(せんぞ)様! 「そんなんせんと、()がしてやったら? 可哀想(かわいそう)やで。一寸(いっすん)の虫にも五分(ぐぶ)(たましい)って言うやんか。そやから、無駄(むだ)殺生(せっしょう)したらあかんのやって、おかんがそう言うてたで」 「登与(とよ)ちゃんが?」  顔をしかめて、水煙(すいえん)は自分の(うで)()()いている、赤と黒の入り交じる、白い(はら)した(へび)の体を(なが)めていた。 「しかし、これはお前に(がい)()すかもしれへん、(どく)のある(へび)なんやで? それでもええのか?」 「やっつけるのは、いよいよほんまに(がい)()されそうになってからにするわ。そうしよう? な?」  俺が笑って取りなすと、水煙(すいえん)はしばらく、(こま)ったような顔をして、うつむきがちに(へび)()らえていたが、やがて深いため息をつき、(へび)の首を()さえていた指を(ゆる)めてやっていた。

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