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25-43 アキヒコ
それはするすると水煙 の腕 を這 いのぼっていき、愛 しげに、未練 を残した腕 のする、愛撫 か抱擁 か、そんな巻 き付き方をして、反対側の腕 へと這 っていき、差し上げられた水煙 の指先から、薄 い灰色 の靄 になって消え、朝の海風に乗っていった。
「偉大 な者になれ、暁彦 。人がお前を愛するような。生まれ変わって、やり直すんや。それが人の道なんやで」
囁 くような声になり、水煙 は去りゆく霊 に、そう祈 ってやっていた。
俺はそれを聞いて、えらいことやなあと思った。
「偉大 な者か……俺もなれるかな、そんなものに」
俺も暁彦 やしなあと、俺がプレッシャーを感じていると、水煙 はくすくす笑った。
「ならんでいい。偉大 には。お前はある意味もう偉大 やから。後はただ、幸せになればええよ。ずっと今みたいなアホのままで、お幸せに生きていけ。好きな絵でも描 いて、好きな蛇 と仲良くな」
なんか、別れの言葉みたい。なんか、アホや言われてる。
なんでやねんて、戸惑 っている俺の胸 を、水煙 はまだくすくす笑うてる顔のまま、どんと両手 で押 してきた。
それが夢落 ちやった。
がばっと夢 から醒 めて、なんや夢 か、もう朝か、変な夢見 たわあ、っていう、そういう瞬間 に続く、夢 という異界 から、現実 の位相 へと立ち返る、そんな帰り道。
優 しい波 の寄 せる砂浜 が、見る間 に暗闇 の向こうの光る点になって、俺から遠ざかっていった。
その暗闇 の中を、何かに引 き戻 されるように、後ろ向きに飛 び抜 けながら、俺は遠ざかっていく水煙 の青い姿 を眺 めた。
ただじっと、手も振 らず見てる。
その座 る姿 が手の平に乗るくらいになり、指先 に乗るくらいになり、やがて見えなくなるのを眺 め、俺は後悔 した。
あの蛇 。あれがもし、ほんまに水煙 を呪 っていた初代 の男なんやったら、トンズラこかせる前に、頼 んどいたら良かった。
水煙 の呪 いを解 いてやってくれへんか。歩けへんのも不便 やろうし、それに非力 もお前のせいやろ。
お前が怨念 として生きてる限 り、その呪 いは解 けへんのやないか。
悪い蛇 やし、やっぱ捻 っといたらよかったか。変に情 けなんかかけず。
でもなあ。あんまり悲惨 すぎるやろ。
自分がめちゃめちゃ愛してた水煙 の手で、悪い蛇 やと殺されるというのは。
イイ子やイイ子やって、可愛 がってもらいたかった奴 なんやしな。
水煙 も、平気そうなようには見えたけど、嫌 やったはずやで。自分が殺 るのは。
別にかまへん。歩けへんでも。俺が面倒 みるしな。
非力 でも別に困 ってるように見えへん。もう慣 れてんのやろ。
それに水煙 が非力 で、いつ困 るんや。ペットボトルの蓋 開ける時とかか。そんなん俺が開ける。
他 に何で困 るんや。買い物しすぎて荷物 重いとかか。そんなん俺が持つ。
案外 いらへんで、腕力 なんて。下僕 さえいれば。
あれ。俺って、水煙 様の下僕 ?
そうかなあ。それってちょっと、まずいんやないの。その結論 やと。
それが結論 なんか、俺。そういう予定やったか?
違 うやろ。アホやでほんま。アキちゃん、またやっちゃったよ。水煙 とやっちゃった。
完璧 、素面 でやで。言 い訳 の余地 なんか皆無 やないか。
嘘 でも寝酒 喰 らっとけばよかったよ。そしたら酒の神のせいにできたのになあ。
でもな、別にもう、言 い訳 要 らんねん。俺も別に今、何もかも終わってもうた事後 になって、その罪 にはっと気付いた訳 ではないんや。やってる最中 から分かってた。
俺は今、水地 亨 を裏切 っている。夢中 になってる。水煙 様に。その他 の神のことなんて、なんも考えてない。
それが怖 いと、どこかで思ってはいても、俺は水煙 が好きや。見捨 てられへん。
愛してるという目で、俺を見つめてくれてるその神と和合 するのに、夢中 にならずにはいられへんねん。
水煙 も自分の神官 として、俺を選んだ神や。それを振 るのは畏 れ多 い。
だって神様なんやで。無礼 やないか。お前のことは愛してないと、嘘 なんかつかれへん。
神様に、嘘 なんかついたらあかんのやで。正直でないとあかん。それは礼儀 や。
でも、どうしよ。水地 亨 に殺される。俺の主神 。あれも一柱の有 り難 い神や。俺の配偶者 。俺のツレ。
こんなんバレたら、アキちゃん死刑 って言われる。言われて当然や。むしろ大人 しく、甘 んじて死刑 を受けるしかない。
言 い訳 の余地 がない。
こんな状況 で、お前が好きや、一番好きやて言うたところで、嘘 にしか聞こえへん。
そうか、二番は誰 やって、嫌 みたっぷりの顔して訊 かれるだけや。
ごめん……二番は……水煙 かな?
ひとり青ざめて、そう思った時、俺はどしんと何か、力強いものに背中 からぶつかっていた。
ぎゃあっ、と内心 、悲鳴 をあげた。それが背 に当たる感触 だけでも、大蛇 やと分かったからやった。
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