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25-52 アキヒコ

 ()きそう死にそうって、目の前ぼんやり(かす)んでもうて、足もとフラフラ。そんな(みじ)めな様(ざま)で、よろめきながら、俺はベッドを()()して、バスルームへ行った。  (きたな)い話で恐縮(きょうしゅく)ですが、俺はトイレに行きたかったんや。()きそうやってん。  ほんまに()いたんや。何か、よう分からんもんを、げろげろ()いた。  食いモンやなかった。何か黒い、虫みたいなもん。  物言(ものい)わねば(はら)(ふく)れるという、(はら)(ふく)らすアレやろう。何か()まってたんや。(はら)ん中にな、山ほど()めてた。  俺は相当、我慢(がまん)してたんや。  実は時々そういうことはあった。子供(こども)のころから、限界(げんかい)()えてストレスたまると、()きそうになったんやけど、ほんまに()いてもうたら、こういうのが()いて出た。  (はら)()めてた暗い情念(じょうねん)のようなもの。  それが百足(むかで)か長虫(ながむし)か、もやっとしてて得体(えたい)の知れへん、禍々(まがまが)しい(もの)()の形になっている。  俺はそれだけ、自分を(のろ)っていたんやろう。(うち)から自分を(むしば)んでいた、自分が生んだ怪物(かいぶつ)や。  それを、げえげえ()いてもうて、しょうがないから、水に流した。  とりあえず水に流せば何とかなるよ。水流(すいりゅう)には神聖(しんせい)な力があるから。それがトイレの水でもやで。  というか、水洗(すいせん)トイレって元々そういうもんやんか。不浄(ふじょう)のもんを、水に流して(きよ)めるという、そんな便利機能(きのう)やで。  火でもええけどな、火はヤバいやろ。火炎(かえん)式トイレは(こわ)いやろ?  それやし水やん。水洗(すいせん)のほうが体に(やさ)しいよ。  不浄(ふじょう)のもんを処分(しょぶん)するには、()やしてからトイレに流せば通常(つうじょう)完璧(かんぺき)なのや。  (みんな)(おぼ)えといたら何かの役には立つかもしれへんよ。()()詐欺(さぎ)(にせ)督促(とくそく)ハガキとか、別れた彼氏(かれし)に昔もらったラブレターとかいった、因縁(いんねん)めいたもんを()てる(さい)のお手軽(てがる)な方法としてさ。  そして腹蔵虫(ふくぞうむし)を流すのにもいい。ゲロって(わす)れてしまうのも、()()りつける一つの手やわ。  俺はしんどい。もう限界(げんかい)。こんなのは、もう続けていかれへん。  (おに)になればと思うけど、どうも俺にはそんな甲斐性(かいしょう)はない。  気が弱すぎて、(とおる)に悪いとは思いつつ、水煙(すいえん)瑞希(みずき)可哀想(かわいそう)。どないしたらええか分からへん。追いつめられてアウト。  そしてそのまま激流(げきりゅう)に、ずるずる()まれるばかり。そして苦しむばかり。相手もそうやし、自分もそうや。(だれ)ひとりとして幸せになられへん。  なんでやろ。なんでこんなことになんの。  人は幸せになるために人を愛するんやないんか。  神様は(ちが)うんか。神かて()たようなもんなんとちがうんか。  (とおる)は幸せになりたくて、俺と一緒(いっしょ)に生きている。俺と()ったら幸せやねんて。  そやのに俺はあいつを全然幸せにしてやれてない。中西(なかにし)さんとも約束したのに、(とおる)をしんどい目にばかり()わせてるんや。  瑞希(みずき)(みじ)めそうな顔してるしな、水煙(すいえん)かて(かな)しい顔ばっかりしてるで。俺かてつらい。  一体(だれ)がそれで幸せになってんのや。  どこかに、どこかにこの迷宮(めいきゅう)の、出口はないんか。  幸せへと続くゴール。これより先は極楽(ごくらく)でございますみたいな、(ひか)(かがや)くゲートがないか。  俺はそれを、どこかで見落としてんのやないやろか。コース間違(まちが)えてんのやないか? どこかに全員でハッピーエンドになれる、そんな奇跡(きせき)のコースはないのか。 「()くほど(いや)(ゆめ)見やったか、アキちゃん」  げえげえ()いてた俺の背後(はいご)から、しみじみ皮肉(ひにく)っぽい声がした。  俺は半分涙目(なみだめ)で、口を(ぬぐ)って、その声がしたほうを()(かえ)っていた。  バスタブのあるほうや。貝殻(かいがら)みたいな白いバスタブの中に、水煙(すいえん)様が鎮座(ちんざ)していた。  太刀(たち)やない。青い人型(ひとがた)のほう。  それの()かる風呂(ふろ)(そそぐ)ぐ水の(せん)を、(ひね)って止めてやっている途中(とちゅう)姿(すがた)のままで、(とおる)がぽかんと俺を見ていた。  あんぐりしていた。口()いていた。  水煙(すいえん)はいつも通り、()(ぱだか)やったけど、(とおる)はまだパジャマを着てた。  頭ぐちゃぐちゃやった。ついさっきまで()てたらしい。  実はちょっと前まで俺の(となり)にいたんや。たまたまちょっと、風呂(ふろ)にいただけで。 「なに、()いてんの……?」  ものすご気色(きしょく)悪そうに、(とおる)は俺がトイレに()いたもんを見ていた。  それはキイキイ(うめ)きつつ、(うごめ)く暗い(かげ)やった。 「とりあえず流せ、アキちゃん。その腹蔵虫(ふくぞうむし)を」  こともなげに言うて、水煙(すいえん)は、俺に()いたもんを始末(しまつ)する方法を教えた。  流せばええのか、これ。そんなんで解決(かいけつ)つくような化けモンなんか。  でも、俺は()えてうだうだ言わず、言われたとおりに水を流した。  ざああっと普通(ふつう)に水は流れ、その渦巻(うずま)きに()まれるように、黒いモヤモヤは、ああーっ、と可哀想(かわいそう)な悲鳴をあげつつ、水の流れに(くず)れるようにして消えていった。  案外(あんがい)、大したことない(やつ)らしい。(はら)()めてると、えらい目にあうけど、思い切ってゲロってしまえば大したもんやない。 「(ゆめ)にお前が出てきたんや、水煙(すいえん)」  あれは(ゆめ)やったんやと、俺は思っていた。

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