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25-53 アキヒコ

 何でか言うたら、バスタブに()かっている水煙(すいえん)は、別にキラキラの天人(てんじん)ではなかった。  元の通りの、青白い海の眷属(けんぞく)で、(おそれ)ろしげな姿(すがた)をしていた。  あの可愛(かわい)いような姿(すがた)(おが)んだ後で見ると、(たし)かにこれは(おそ)ろしい海の怪異(かいい)姿(すがた)やった。  それでも禍々(まがまが)しい美しさではあるけども、魔性(ましょう)のものや。  水煙(すいえん)(たし)かに、(けが)れてもうてるんやろう。代々(だいだい)当主(とうしゅ)翻弄(ほんろう)してきて、代々(だいだい)の男を(くる)わせていた。  それもこいつの本性(ほんしょう)なんやで。(けが)れない天人(てんじん)やったのは、もう二千年ほども前の話や。すっかり地上に()まってもうてる。  いかにも魔性(ましょう)と思える、妖艶(ようえん)()みを()かべて、水煙(すいえん)はにやりと(くちびる)を開いた。そこに白い歯列(しれつ)(した)(ひそ)んでいた。  それを(むさぼ)った時のことが、ふと思い出されて、俺はぞくっとした。  笑っている水煙(すいえん)は、美しく見えた。魅入(みい)られるに()る神さんやった。 「出てきたか? 俺は何も(おぼ)えていないけどなあ」  しれっと平気(へいき)そうな声で、水煙(すいえん)はそう言うていた。まるで、ほんまに何も(おぼ)えていないようやった。  それならそれでいいのか。  本来、こういうもんか。  水煙(すいえん)(おぼ)えていないんやろか。当主(とうしゅ)()ごした初夜(しょや)出来事(できごと)は、翌朝(よくあさ)には(わす)れているもんなんか。  それともあれは俺の馬鹿(ばか)げた妄想(もうそう)で、水煙(すいえん)はただ、一(ばん)たって機嫌(きげん)を直し、風呂(ふろ)に入ってるだけなのか。 「(みそ)ぎしろ、アキちゃん。また神事(しんじ)がある。秋尾(あきお)()びに来た。(くじ)取(くじと)りをやるらしい。水占(みずうら)や」  心地(ここち)よさそうに水に()かって、水煙(すいえん)優雅(ゆうが)に足を組み()えていた。  その足には(ひれ)があり、海の眷属(けんぞく)と思えるような姿形(すがたかたち)を、水煙(すいえん)はしていた。  あの(ゆめ)がもしも本当なんやったら、それは伊勢(いせ)の海神(わだつみ)が水煙(すいえん)(あた)えた姿(すがた)や。  水煙(すいえん)はきっと、海の神にも愛されていたんやろう。  そもそもこいつは地球の海が美しいからという理由で、月から落っこちてきたんやしな、その時々の、馴染(なじ)んだ相手の好む姿(すがた)変転(へんてん)しながら生きてきた。  始めは月の眷属(けんぞく)で、その時は天人(てんじん)やったしな、鍛冶屋(かじや)()れたら太刀(たち)になる。  俺に()れたら俺の()く、好き勝手な妄想(もうそう)姿(すがた)変転(へんてん)し、それでかまへんという性格(せいかく)なんや。  きっとまた、心変わりできるやろう。  (だれ)(ほか)の、俺ではない(だれ)か、そいつの好む姿(すがた)になって、きっと幸せになってくれるやろ。  そうやと信じたい。俺はそう(いの)りたい気分やった。  しかし気がついてもいた。  水煙(すいえん)て、幸せやったこと、あんのか。  (ゆめ)とはいえ、俺と()()うて(あえ)ぎ、こんな気分になったのは、初めてやと言うていた。  それって、どんな気分。  まさか、幸せな気分のことか。  そうかもしれへん。月や海に()れたところで、独占(どくせん)はできひん。なんというても自然神(しぜんしん)や。(みな)のもんやで。それはしょうがない。  そして刀鍛冶(かたなかじ)無理(むり)やった。  ()の火に魅入(みい)られていた。(つち)(つち)と(ふいご)が生きる(すべ)ての、そんなオタク男やった。  それもしょうがない。そんな(やつ)から好きな技芸(ぎげい)(うば)ってもうたら、生きてる意味がないからな。  そして、それを(あきら)め次にいった連中なんて、秋津(あきつ)代々(だいだい)当主(とうしゅ)であり、式神(しきがみ)(したが)えて戦おうという(げき)ばっかりなんや。  無理無理(むりむり)基本(きほん)多頭飼(たとうが)いなんやて言うてたやんか。  そうでなければ(つと)まらぬ。それは水煙(すいえん)本人がそう、俺に教えた話なんやで。  しょうがない。血筋(ちすじ)の定め、それが家業(かぎょう)や、うだうだ言うてもしょうがない。  しょうがない、しょうがないで(あきら)めて、はっと気付けば二千年()ってたということなんやろ。  自分の幸せ二の次で、相手に()くしてやってるうちに、ふと気付けば、幸せってなに。そんなん感じたことないわという、そういう事なんや。  うわ。気付かんかったらよかった。また気まずい。  せっかく今朝(けさ)微笑(ほほえ)んでいる、なんともいえず満足(まんぞく)したふうの、水煙(すいえん)様に顔向(かおむ)けできひん。  俺はお前を()るつもり。もう今すぐにでも言わなあかん。  お前とは無理や。俺は(とおる)と生きていくんや。()まない水煙(すいえん)、俺のことは、(わす)れてくれって。  けど、あれが(ゆめ)なら、ちょっとだけ気も(らく)や。あれは(ゆめ)で、現実(げんじつ)やない。俺の勝手な妄想(もうそう)なんや。  俺は水煙(すいえん)とは()てへん。怨霊(おんりょう)もいいひん。ただの(こわ)(ゆめ)やった。  そう自分に言い聞かせ、俺は怨霊(おんりょう)(えが)いていた呪方陣(じゅほうじん)のあるはずの、自分の左手の手の平を見た。  (にぶ)(しび)れる(いた)みのようなもんがあって、手の平にはまた金色の線が、(あや)しい文様(もんよう)()()がらせていた。  警報(けいほう)鳴ってる。水煙(すいえん)泣かせたセンサーが、もう作動(さどう)しかけてる。  (ゆめ)やない。  ほんまにいたんや、あの怨霊(おんりょう)は。  俺のご先祖(せんぞ)様。顔そっくりの角髪(みずら)男で、水煙(すいえん)泣かせたら俺を乗っ取りに来ると、そう言い残していた。  さっき別れたとこやのに、またまたリターンマッチ?  すみません、初代(しょだい)様。あー、しんど、って、やっと冥界(めいかい)帰ったら、あれっもう警報(けいほう)鳴ってる、また出動(しゅつどう)かいな、みたいな。そんなノリやで。  信用(しんよう)できひん子孫(しそん)すぎ。ヘタレですみません。

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