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25-57 アキヒコ
「もっと早くに振 り切 っていれば、俺はどこか、太平洋 のど真ん中にでも、捨 てられてたんやないかなあ。ジュニアのために持って帰ろうなんて、思うわけない。お前には、覡 にはなってもらいたくなかったんやしな」
苦笑 して、水煙 はそれをほんまに信じているような口調 で言うてた。
おとんは自分を愛してなかったと、水煙 はほんまに思うてるらしい。ただ祟 られていただけで、抱 きたい抱 きたいも本心やなかった。全 ては怨霊 のせいやと、思っていたらしい。
「そんなことないやろう。おとんは俺に、自分の続きを生きてくれって、言うてたで」
「それは絵の話や、アキちゃん。お前の父は、絵描 きになりたかったんや。そんなもん、あかんて、俺が止めた。秋津 の一人子 や。あいつは当主 になる義務 があったしな、絵を描 くなら描 けばええけど、それが本業 というんでは、まずかったんや。ふらふら旅して、あちらこちらで絵描 いて、それが全 てというのでは、家も一族も、守られへんどころか、我 が身ひとつも養 うていかれへんかもしれんやろ。お国のために尽 くすことかて、できへんのやしな。そんな根のない流 れ藻 のような生き様 では、あかんのやと、俺は思うてた」
でも水煙 は俺に、絵描 きになりたきゃなればええよと許 してた。
なんで、おとんはダメで、俺はええんや。その心境 の変化が、よう分からへん。
俺がそう心で問 うと、水煙 はちょっと、疲 れたように微笑 んでいた。
「可哀想 になったんや。お前の父が死ぬのを眺 めてな。まだ若 かったし、心残 りが多すぎた。お前のこともそうや。これから生まれてくるはずの、我 が子 の顔も見ていない。お登与 のことも心配や。絵描 きにもなられへんかった。朧 にも済 まんことをした。式(しき)たちのことにしても、あれも死んでもうた、これも死んだで嘆 かれる。それでも家のため、お国のためや、後悔 はないけども、でもな……」
ぽつりと言うて、水煙 は押 し黙 り、その時のおとんのことを、思い出しているようやった。そんな遠い目をしてた。
どこか深い海の底 で、死にゆく男の顔を見つめているような、遠い目やった。
「でも、お前の父は無念 やったんや。不幸(ふしあわ)せやった。生きて、やりたいことが沢山 あった。でも全部、我慢 したんや。諦 めた。それは、俺のせいやったかもしれへん」
思えば俺に、我慢 せえ、我慢 せえよと言われるばかりの二十一年で、お前の父はしんどかったんやろなあと、水煙 は、ぽかんとしたような、気怠 い声して言うていた。
貝殻 のようなバスタブにぐったり凭 れ、そうしていると、寛 いでいるようやったけど、それでも水煙 はなんか、いつもよりずっと、小さいような気がした。
「アキちゃん、あいつは朧 と行きたかったやろ。何のしがらみもなければ、行きたかったんやと思う。それでも登与 ちゃんにも、ええ格好 したいし、俺も怖 いし、なんというてもお国のためや。しょうがない。しょうがないんやって、諦 めたんやろう」
それは立派 な決断 や。
大人 なんやしな、駄々 をこねてもしょうがない。
おとんは俺と同じ二十一歳 で、早々 と大人 になっていた。自分の人生の喜びを全 て犠牲 にしてでも、救 いたいモンがあり、尽 くしたいモンがあったんや。
大義 のためや。それしか選べるもんがなかった。
おとんが生きていた時代には。それ以外は全部、負け犬のコースで、おとんはそれは嫌 やったんや。勝利したかった。自分の人生に。
「それは、俺のせいやないやろか、アキちゃん。俺はお前の父が小さい時分 からずっと、しょうがない、諦 めろと、ことある毎 に諭 してきたような気がする。つらくても、しょうがない、それが血筋 の定 めやし、そういう時代やったんや。でもな、でも、もし俺が、諦 めるなと諭 すような、強い神やったら、あいつは生きて戻 ったんやないやろか。そして、ほんまに生きたまま、自分の人生の続きを生きたんやないか。なりたい絵描 きにもなれたやろうし、可愛 い息子 も抱 っこしてやれた。お前が覡 になるならなるで、太刀 をとるならとるで、全 て自分で養育 してやれたんや。お前もそのほうが、嬉 しかったやろう?」
そうかもしれへん。あんな変なおとんやけども、居 ないよりは、居 てくれたほうがいい。
毎日どつき合うような、ライバル意識 丸出しの、エグい親子やったかもしれへんけども、それはそれで、楽しかったやろう。おとんと競 い合 うように、絵を描 いて、それで親子二代の絵師 として、生きていくのはな。
俺はこの時まだ、おとんの描 いた絵を見たことなかった。一枚 もない。
見とうないんや。うっかり見てもうて、それが俺の絵より格段 に上手 かったら、なんでか凹 む。
おとんを一生越 えられへんて、そんなふうに思えてもうたら、俺は怖 くて絵筆 を握 られへんようになりそうで、ビビるんや。
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