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25-58 アキヒコ
でも、それと相反 する気持ちもあった。
俺はなんで、おとんの絵の一枚 も、見せてもらえへんのやろ。そんなん、冷たいやないか。俺も見てみたい。
俺のおとんは強い覡 やったんや。すごい英雄 やったんやというのでも、それは嬉 しい。息子 として、何かこそばゆいような嬉 しさがある。
でも、俺はそれより、おとんがすごい絵師 やったというほうが、たぶん嬉 しい。
もしもおとんの絵を見て、それが俺の描 くのより、下手 くそやったらどうしようという怖 さも感じる。
おとんが絵師 として、どうってことない凡人 やったら、どないしよ。
俺は無意識 に、いつも期待 していた。おとんは俺より前を歩いてる。俺はその背中 を、コノヤロウと思って追いかけていく。そういう相手 であって欲 しい。
「俺は絵のことは、さっぱりわからへんのや。お前の父の描 いたもんは、見たことあるけど、それが良いやら悪いやら、よう分からへん。そんな奴 に絵を描 いてやっても、しょうもないわと思われたんかなあ」
にこりと少々、寂 しそうに、水煙 は自嘲 していた。
そういえば、おとんに絵に描 いてもろたことないと言うていた。
水煙 はそのことを、実はけっこう気にしていたんやないか。
おとんは惚 れた相手のことは、絵に描 いていたらしい。俺と同じ性癖 やったんやろう。
好きや好きやで、描 かずにおれへん。そういうところがあると分かってんのに、自分を描 いてくれた絵がなかったら、水煙 も切 なかったんやろう。
「でも……上手 やったで。たぶん某 かの才能 はあったんやろう。俺に摘 まれてなければ、ちゃんとその芽 が育って、ひとかどの絵描 きになったんかもしれへん。それも、無念 やったやろう。あいつは筆 を折 ってもうたんや。従軍 してから、一度も絵を描 いていない」
つまり七十年以上やで。
すでに死んでる男なんやし、絵なんか描 かへんのかもしれんけども、でも、トミ子は描 いてる言うてたやん。
死んでも絵描 きは絵描 くんやで。それが自然 や。死んでもうたらもう描 かへんなんて、俺にはそうは思えへん。
「折 れてもうたんやろう。絵筆 だけやのうて、いろいろな。あいつは自分を歪 めて、本来、望 んでいたのとは違 うほうへ進んだ。それが随分 、堪 えたんやろう。お前を見てたら、そう思えてきた。絵さえ描 いてりゃ幸せやった。あれも、そういう子やったのになあ……」
悔 やむ目をする水煙 は、俺の背後 に、俺やない、生きていた頃 のおとんを見ていた。
俺の知らん、まだ生身 の男やった、秋津 暁彦 を。
「アキちゃん、俺は、守り神失格 なんや。秋津 の子らは、ちっとも幸せでなかった。つらい目にばかり遭 わされた。俺がたとえば、水地 亨 のような神やったら、皆 、幸せになれたかもしれへん。今、お前があいつのお陰 で、幸せになれたようにな」
水煙 は、いかにも情 けないふうに、バスタブの水面 を見つめて笑い、そこに映 っている自分の顔を眺 めているようやった。
「あのな。お前が起きる前に、朧 が来たんや。激怒 していた。昨夜、寝 ようとしたら、ヘタレの茂 に捕 まってもうて、お前がずらした位相 を直すの手伝 ってくれと頼 まれたもんで、断 ろうとしたけど、お前がそれをやるよう命じていたもんやから、それに縛 られていて、断 らへんかったんやって。まだ終わらんから、誰 か手を貸 せというので、犬を貸 してやったわ。お前の血肉を喰 ろうて、随分 、力も湧 いたようやしな。もう大丈夫 やろう。あいつもそれが心配で、様子 見に来たようやった」
「あいつって、朧 のことか」
俺が訊 ねると、水煙 は、うんうんと小さく頷 いていた。
「あれも実は、ええ奴 かもしれへんな。少なくとも、邪悪 な物 の怪 という訳 ではない。お前の父の言うとおりやった。斬 るしかないような鬼 ではない。俺はただ妬 けて、見極 めそこなったんやろう。無様 やな。あれがお前の父に愛されているのが、憎 たらしいて、我慢 ならんかったんや」
うっふっふと、つらそうに笑い、水煙 は苦痛 のあるような顔をしいてた。
幸せそうでは全然 なかった。ただただ慚愧 の表情 や。
「アキちゃん……お前はもう、一人前 になった。まだまだ学ぶべきことはあるやろうけど、それは茂 や蔦子 や、他でもない、お前の父母に教えを乞 えばいい。亨 がお前を支 えてくれるやろう。式 もまあまあ使えるようなのが手に入ったしな。犬と朧 と、それだけ居 れば当座 はええやろ。朧 に面倒 みさせたらええわ。あいつはあれで、案外 世話焼 きらしいから、きっと何とでもなる。龍 には俺を、供物 に差し出せばいい。衰 えたとはいえな、これでも俺は、海神(わだつみ)にはモテるんや。鯰 は駄目 でも、海の龍 やったらな、俺を気に入るかもしれへん」
水煙 は、いったい何の話をしてたのか。
俺はぽかんと聞いていた。
これは、別れ話やないか。
水煙 は俺に、さよならと言うている。自分はもう行くと。
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