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25-66 アキヒコ

 (ささや)き声でそう言われ、俺は一応(いちおう)(うなず)いたけど、どうしてええかわからんかった。  どうすればその(きず)が消えるのか、見当(けんとう)つかへん。 「水煙(すいえん)、あのな、今日(きょう)はずっと、この格好(かっこう)でいてくれ。お前のこの姿(すがた)が、俺は好きなんや。お前を無難(ぶなん)姿(すがた)に変えようなんて、俺がアホやった。どんな姿(すがた)をしてようが、それがお前のほんまの姿(すがた)やったら、きっと(みな)にも分かるやろう。お前が美しい神やということが」 「そうやろうか、アキちゃん。お前の(はじ)にはならへんか」  ぼんやり心配げな声で、水煙(すいえん)(たず)ねてきた。  その時、どんな顔をしていたのか、俺には見えへんかった。()きかかえた体を、ぎゅうっと強く、()きしめていたせいで。 「アキちゃん……そんなに強く、()かんといてくれ。(むね)が苦しい……」  ()しつぶされそうやと、(せつ)なげに苦しんで、水煙(すいえん)はそれでも、()えた(うで)なりの強さで、俺を()き返してくれた。  これが最後の抱擁(ほうよう)や。もう二度と、こんなことはないと、()れあった(はだ)から、そう(さと)されているような気がした。これを最後にしておけと。  そうや、俺には、(とおる)が待ってる。この身を二つに()()いて、片方(かたほう)水煙(すいえん)にやるわけにはいかへん。  死んでまうやろ、そんなことしたら。死んでしまう。  でも俺の(たましい)は、実はもう二つに、()()かれた後やないやろか。  水煙(すいえん)を手放す自分を思うたら、()()かれた(たましい)の一部が、(おそれ)ろしい断末魔(だんまつま)の悲鳴をあげて、死ぬような気がする。  それは怨霊(おんりょう)の声か。そうやない。俺の中に怨霊(おんりょう)は、もう()てへんのやから。  それは俺の声で、俺の悲鳴(ひめい)や。水煙(すいえん)(こい)しい。そういう声や。  俺もなんて、多情(たじょう)(へび)やろ。もうアキちゃん、殺さなあかん。(みな)もそう、思うやろ?  俺かてそう思うんや。俺はもう、自分で自分を殺さなあかん。  自分の(たましい)の中にある、水煙(すいえん)(こい)しい言うてる部分を、泣いて()るしかないんや。  そして、だらだら血を流す。苦しい(いた)いて(もだ)え苦しむ。それを(かく)して、にこにこ生きていかなあかん。 「お前には俺の(たましい)が、見えるんか、水煙(すいえん)。その(たましい)の、俺がお前を愛してるところを、千切(ちぎ)って持っていってくれへんか。俺はお前にも、俺をやりたいんや。今でもまだ、俺が()しいと思うてくれてんのやったら、俺の(たましい)欠片(かけら)だけでも、持っていってくれ」  俺は本気でそう(たの)んでた。苦しいんや。()()かれそうで苦しい。  そんならいっそ、()いていってくれ。お前の神の手で。  でも水煙(すいえん)は、それはあかんという顔で、やんわり首を()って(こば)んだ。 「無理やアキちゃん。そんなことしたら、お前は死んでしまう。(たましい)を分けることなんか、できへんのやで」  でも、もし、そんなことがほんまにできるんやったら、俺もそうしたいと、水煙(すいえん)は俺に教えた。  水煙(すいえん)(いと)しいと、思うてくれている、その(たましい)一欠片(ひとかけら)だけでも、もぎ取って()らいたい。(いと)おしいお前を、俺も自分のものにしたい。たとえ一欠片(ひとかけら)だけでもな。  (ささや)く心の言うとおりの、(いと)おしそうな仕草(しぐさ)で、水煙(すいえん)は青い(ほお)を、俺の(ほお)()()せたけど、もうキスはしてくれへんかった。  すぐに(はな)れて、ため息とともに、こう言うた。 「無理なもんは無理や。しょうがない。(あきら)めるしか、しょうがないなあ」  にやりと言うてる苦笑いの顔は、まさしく水煙(すいえん)様のご尊顔(そんがん)やった。  この諦観(ていかん)の、皮肉(ひにく)()みこそ、水煙(すいえん)様の魅力(みりょく)やったかもしれへん。  (おそれ)ろしくて(かな)しい、なんて(うるわ)しい神や。  そして(せつ)なく、つれない神や。  もう幸せそうには、微笑(ほほえ)んでくれへん。  俺は結局(けっきょく)水煙(すいえん)のことを、幸せにはしてやられへんかったのか。  さっきのあの微笑(ほほえ)みは、一瞬(いっしゅん)だけ見えた、奇跡(きせき)みたいなもんやった。それを(おが)めただけでも、俺は代々の当主(とうしゅ)の中で、とびきり幸運な(やつ)やったんや。 「この姿(すがた)で行くわ。車椅子(くるまいす)(すわ)らせて。(うたげ)の間は、瑞希(みずき)面倒(めんどう)みさせるからな、アキちゃんは俺のことは、放っておけばいい。あの犬な、今日(きょう)は一日、余計(よけい)なこと考える(ひま)もないくらい、俺がこき使(つこ)うといてやるから、それも何も心配せんでええよ」  にやにや言うてる水煙(すいえん)様は、如才(じょさい)なかった。  俺はそれに、(おそ)()った。  ()(がた)やと、(あが)(たてまつ)りたいような神さんやった。  遊んでおいでと(ゆる)す、その神のごとき寛大(かんだい)さも、どこかおかんを思わせた。  俺のおかん、秋津(あきつ)登与(とよ)は、もしや水煙(すいえん)様を理想(りそう)の自分として、それを模範(もはん)と生きてきた女やったんかな。 「行こう、アキちゃん。もうとっくに遅刻(ちこく)してんのやで。ヘタレの(しげる)神経(しんけい)切れてる」  ほんまにいつまで大崎(おおさき)先生は、ヘタレの(しげる)なんやろか。  なんでヘタレの(しげ)って言うんや、水煙(すいえん)までが。おとんがそう()んでただけやろ。  もしかして、(ちが)うんか。水煙(すいえん)がそう()んでたんか。それを、おとんがパクってただけか。  実は案外(あんがい)舌鋒(ぜっぽう)(するど)い神さんなんか。  水煙(すいえん)て、毒舌(どくぜつ)なんか?  (どく)があんのか、あの、ちっさい白い(した)には。

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