566 / 928

25-66 アキヒコ

 囁(ささや)き声でそう言われ、俺は一応(いちおう)頷(うなず)いたけど、どうしてええかわからんかった。  どうすればその傷(きず)が消えるのか、見当(けんとう)つかへん。 「水煙(すいえん)、あのな、今日(きょう)はずっと、この格好(かっこう)でいてくれ。お前のこの姿(すがた)が、俺は好きなんや。お前を無難(ぶなん)な姿(すがた)に変えようなんて、俺がアホやった。どんな姿(すがた)をしてようが、それがお前のほんまの姿(すがた)やったら、きっと皆(みな)にも分かるやろう。お前が美しい神やということが」 「そうやろうか、アキちゃん。お前の恥(はじ)にはならへんか」  ぼんやり心配げな声で、水煙(すいえん)は訊(たず)ねてきた。  その時、どんな顔をしていたのか、俺には見えへんかった。抱(だ)きかかえた体を、ぎゅうっと強く、抱(だ)きしめていたせいで。 「アキちゃん……そんなに強く、抱(だ)かんといてくれ。胸(むね)が苦しい……」  押(お)しつぶされそうやと、切(せつ)なげに苦しんで、水煙(すいえん)はそれでも、萎(な)えた腕(うで)なりの強さで、俺を抱(だ)き返してくれた。  これが最後の抱擁(ほうよう)や。もう二度と、こんなことはないと、触(ふ)れあった肌(はだ)から、そう諭(さと)されているような気がした。これを最後にしておけと。  そうや、俺には、亨(とおる)が待ってる。この身を二つに引(ひ)き裂(さ)いて、片方(かたほう)を水煙(すいえん)にやるわけにはいかへん。  死んでまうやろ、そんなことしたら。死んでしまう。  でも俺の魂(たましい)は、実はもう二つに、引(ひ)き裂(さ)かれた後やないやろか。  水煙(すいえん)を手放す自分を思うたら、引(ひ)き裂(さ)かれた魂(たましい)の一部が、怖(おそれ)ろしい断末魔(だんまつま)の悲鳴をあげて、死ぬような気がする。  それは怨霊(おんりょう)の声か。そうやない。俺の中に怨霊(おんりょう)は、もう居(い)てへんのやから。  それは俺の声で、俺の悲鳴(ひめい)や。水煙(すいえん)恋(こい)しい。そういう声や。  俺もなんて、多情(たじょう)な蛇(へび)やろ。もうアキちゃん、殺さなあかん。皆(みな)もそう、思うやろ?  俺かてそう思うんや。俺はもう、自分で自分を殺さなあかん。  自分の魂(たましい)の中にある、水煙(すいえん)恋(こい)しい言うてる部分を、泣いて斬(き)るしかないんや。  そして、だらだら血を流す。苦しい痛(いた)いて悶(もだ)え苦しむ。それを隠(かく)して、にこにこ生きていかなあかん。 「お前には俺の魂(たましい)が、見えるんか、水煙(すいえん)。その魂(たましい)の、俺がお前を愛してるところを、千切(ちぎ)って持っていってくれへんか。俺はお前にも、俺をやりたいんや。今でもまだ、俺が欲(ほ)しいと思うてくれてんのやったら、俺の魂(たましい)の欠片(かけら)だけでも、持っていってくれ」  俺は本気でそう頼(たの)んでた。苦しいんや。引(ひ)き裂(さ)かれそうで苦しい。  そんならいっそ、裂(さ)いていってくれ。お前の神の手で。  でも水煙(すいえん)は、それはあかんという顔で、やんわり首を振(ふ)って拒(こば)んだ。 「無理やアキちゃん。そんなことしたら、お前は死んでしまう。魂(たましい)を分けることなんか、できへんのやで」  でも、もし、そんなことがほんまにできるんやったら、俺もそうしたいと、水煙(すいえん)は俺に教えた。  水煙(すいえん)愛(いと)しいと、思うてくれている、その魂(たましい)の一欠片(ひとかけら)だけでも、もぎ取って喰(く)らいたい。愛(いと)おしいお前を、俺も自分のものにしたい。たとえ一欠片(ひとかけら)だけでもな。  囁(ささや)く心の言うとおりの、愛(いと)おしそうな仕草(しぐさ)で、水煙(すいえん)は青い頬(ほお)を、俺の頬(ほお)に擦(す)り寄(よ)せたけど、もうキスはしてくれへんかった。  すぐに離(はな)れて、ため息とともに、こう言うた。 「無理なもんは無理や。しょうがない。諦(あきら)めるしか、しょうがないなあ」  にやりと言うてる苦笑いの顔は、まさしく水煙(すいえん)様のご尊顔(そんがん)やった。  この諦観(ていかん)の、皮肉(ひにく)な笑(え)みこそ、水煙(すいえん)様の魅力(みりょく)やったかもしれへん。  怖(おそれ)ろしくて哀(かな)しい、なんて麗(うるわ)しい神や。  そして切(せつ)なく、つれない神や。  もう幸せそうには、微笑(ほほえ)んでくれへん。  俺は結局(けっきょく)、水煙(すいえん)のことを、幸せにはしてやられへんかったのか。  さっきのあの微笑(ほほえ)みは、一瞬(いっしゅん)だけ見えた、奇跡(きせき)みたいなもんやった。それを拝(おが)めただけでも、俺は代々の当主(とうしゅ)の中で、とびきり幸運な奴(やつ)やったんや。 「この姿(すがた)で行くわ。車椅子(くるまいす)に座(すわ)らせて。宴(うたげ)の間は、瑞希(みずき)に面倒(めんどう)みさせるからな、アキちゃんは俺のことは、放っておけばいい。あの犬な、今日(きょう)は一日、余計(よけい)なこと考える暇(ひま)もないくらい、俺がこき使(つこ)うといてやるから、それも何も心配せんでええよ」  にやにや言うてる水煙(すいえん)様は、如才(じょさい)なかった。  俺はそれに、畏(おそ)れ入(い)った。  有(あ)り難(がた)やと、崇(あが)め奉(たてまつ)りたいような神さんやった。  遊んでおいでと許(ゆる)す、その神のごとき寛大(かんだい)さも、どこかおかんを思わせた。  俺のおかん、秋津(あきつ)登与(とよ)は、もしや水煙(すいえん)様を理想(りそう)の自分として、それを模範(もはん)と生きてきた女やったんかな。 「行こう、アキちゃん。もうとっくに遅刻(ちこく)してんのやで。ヘタレの茂(しげる)が神経(しんけい)切れてる」  ほんまにいつまで大崎(おおさき)先生は、ヘタレの茂(しげる)なんやろか。  なんでヘタレの茂(しげ)って言うんや、水煙(すいえん)までが。おとんがそう呼(よ)んでただけやろ。  もしかして、違(ちが)うんか。水煙(すいえん)がそう呼(よ)んでたんか。それを、おとんがパクってただけか。  実は案外(あんがい)、舌鋒(ぜっぽう)鋭(するど)い神さんなんか。  水煙(すいえん)て、毒舌(どくぜつ)なんか?  毒(どく)があんのか、あの、ちっさい白い舌(した)には。

ともだちにシェアしよう!