592 / 928

26-18 トオル

 ハズレたらしい。  それは、めでたい話やった。  背中(せなか)しか見えへん大崎(おおさき)先生も、平然(へいぜん)みたいやけど、ほんまのところ、ホッとしてるんかもしれへん。  それでも(きつね)複雑(ふくざつ)そうやった。  いつも、にこにこ愛想(あいそ)のいい糸目(いとめ)の顔に、今はどことなく(うれ)いのある()みが()かんでいた。 「えらいことやで、(とおる)くん。君のご主人様、まだ水面におるわ」  なんのこっちゃと、水盆(すいぼん)を見て、俺はびっくりした。  そうするやろなあと思うてたけど、アキちゃんほんまに、自分の名前を書いて出してた。  本間(ほんま)暁彦(あきひこ)と書いてある(くじ)(くじ)が、まだ水面にあり、(かす)かに()れてた。  それと争うようにして、()いているもう一枚(いちまい)には、なんて読むんか分からん漢字の名前が書いてあった。  なにこれ。なんか分からん。ナントカ・カントカ王。  ごめんな、(とおる)ちゃん、漢字苦手やねん。  (むずか)しいねん。メソポタミアに漢字はないから。  楔形(くさびがた)文字なら読めるんやけど、漢字があかんねん。  アホなだけ?  それでも俺は、念力(ねんりき)をこめたよ。  コノヤロウ、名前読めへんナントカ・カントカ王、お前が()け。  アキちゃん(しず)め。()(にえ)なってる場合と(ちが)う。  それは予言(よげん)とも(ちが)うから。  ハッピーエンドのコースやないから。ナントカ・カントカ王が死ねばよし。  (だれ)やねんお前。(だれ)やねんて、しばらく本気で思ってから、俺はやっと気がついた。  じっと()()に水面を見てる、信太(しんた)の顔が目について。  そうや。  信太(しんた)やで。  信太(しんた)というのは(かり)の名で、蔦子(つたこ)さんがつけた。  こいつには、それとは別に、(まこと)の名があるんや。  俺が水地(あきら)やのうて、深い水底の王の家(エエングラ)()むエア様であるように、信太(しんただ)にも、生まれた土地での名前があるんや。  その名を書き(しる)す文字は、たぶん漢字やない。  俺がアホやから読めない(わけ)やない。たぶん(みな)も読めへんで。  もっと古い、古い時代の、絵のような文字で、そこには(とら)がいて、()えさかる火のような文字が(つら)なっていた。  何て読むやら、わからへん。でも俺は、その名に(いの)ったかもしれへん。  あるいは、水占(みずうら)の神に。  すまんけど。お前が、()って。  アキちゃんを、死なせる(わけ)にはいかへんねん。  お前、言うてたやん。(なまず)()(にえ)になるのは、自分の運命(うんめい)やみたいなことを。  それに鳥さんにも、スパルタ教育で不死鳥(ふしちょう)育成(いくせい)コース。それが(ねら)いやって、そんな話やったやん。  ほんなら、ええやん。たとえお前が選ばれも、それで予定通りやろ。  そうなるはずや。蔦子(つたこ)さんがそう予知(よち)したんや。絶対(ぜったい)そうなる。  そうやなかったら、俺は(こま)るんや。  アキちゃん守ってやるって、水煙(すいえん)約束(やくそく)した。  守ってやりたい。アキちゃんはずっと、俺が守ってやるから……。  そう思う俺の目の前で、水盆(すいぼん)にはまた、(かす)かな(ふる)えが走った。  水面が(ふる)え、そのさざ波は、なんでか知らん、信太(しんた)ではなくアキちゃんを選ぼうとしていた。  (なまず)が食いたい、その()(にえ)は、本間(ほんま)暁彦(あきひこ)やと、(ふる)える水が教えようとしてる。  あかんで、そんなん。  アキちゃんはもう、死んだりせえへん。俺とずっと永遠(えいえん)に生きる。  信太(しんた)を選べ。  (だれ)か食いたいんやったら、(とら)を食え。  俺のアキちゃんやのうて、(とら)を食えばいい。  俺のアキちゃんに、手出しせんといてくれ!  強く(ねん)じた、その気合(きあ)いが通じたんか。  それとも。  俺は水の神か。  さざ波が立つだけやった水盆(すいぼん)に、突然(とつぜん)(うず)()いた。  (うず)は、本間暁彦(あきひこ)を引っつかみ、たちまちにして(おぼ)れさせた。  そして、(うず)から(のが)れた、名も知れぬ古い(とら)の神は、(はじ)()されて水盆(すいぼん)(はし)へ。  ゆらゆら翻弄(ほんろう)されて、それでも()いていた。(しず)気配(けはい)もなく。水から(こば)まれてるように、水面に(とど)まっていた。  信太(しんた)がちらりと目を上げて、俺の顔を見た。  それと目が合い、なんでか俺は、ぎくりとしていた。  偶然(ぐうぜん)やで、信太(しんた)(うらな)いや。  天地(あめつち)の(おぼ)()しや。(うら)まんといてくれ。  (うら)まんといて……。  そう気が(とが)めて、俺は気がついていた。  俺は水占(みずうらな)いの結果を、(いじ)ったと思う。  俺は水を(あやつ)れる。それが真水(まみず)であれば。  かつて遠い遠い異郷(いきょう)の地で、俺は川の王やった。川辺(かわべ)神殿(しんでん)の、水底(みなそこ)の玉座(ぎょくざ)にいた。  俺は淡水(たんすい)君臨(くんりん)する、蛇神(へびがみ)やったから。  そんな、昔とった杵柄(きねづか)か。  俺はアキちゃんの代わりに死んでくれる(やつ)を、選んだんかもしれへん。  もしも、俺がもっと早くに、この部屋(へや)辿(たど)()いていたら、(だれ)やお前っていうような、死んでも気が(とが)めへんやつを、選んでやったかもしれへん。  信太(しんた)みたいな、俺にとっても死んでほしくない(やつ)でなく。  でももう、そこは、運命や。そうとしか言い(よう)がない。  俺が来たときには、もう運命は、二択(にたく)になっていた。  アキちゃんか(とら)か。  俺にとっては、その()いは、(なや)余地(よち)のないもんやった。  ごめん信太(しんた)。俺がお前を、黄泉(よみ)に追いやったやろか。

ともだちにシェアしよう!