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26-18 トオル
ハズレたらしい。
それは、めでたい話やった。
背中 しか見えへん大崎 先生も、平然 みたいやけど、ほんまのところ、ホッとしてるんかもしれへん。
それでも狐 は複雑 そうやった。
いつも、にこにこ愛想 のいい糸目 の顔に、今はどことなく憂 いのある笑 みが浮 かんでいた。
「えらいことやで、亨 くん。君のご主人様、まだ水面におるわ」
なんのこっちゃと、水盆 を見て、俺はびっくりした。
そうするやろなあと思うてたけど、アキちゃんほんまに、自分の名前を書いて出してた。
本間 暁彦 と書いてある籤 (くじ)が、まだ水面にあり、微 かに揺 れてた。
それと争うようにして、浮 いているもう一枚 には、なんて読むんか分からん漢字の名前が書いてあった。
なにこれ。なんか分からん。ナントカ・カントカ王。
ごめんな、亨 ちゃん、漢字苦手やねん。
難 しいねん。メソポタミアに漢字はないから。
楔形 文字なら読めるんやけど、漢字があかんねん。
アホなだけ?
それでも俺は、念力 をこめたよ。
コノヤロウ、名前読めへんナントカ・カントカ王、お前が逝 け。
アキちゃん沈 め。生 け贄 なってる場合と違 う。
それは予言 とも違 うから。
ハッピーエンドのコースやないから。ナントカ・カントカ王が死ねばよし。
誰 やねんお前。誰 やねんて、しばらく本気で思ってから、俺はやっと気がついた。
じっと伏 し目 に水面を見てる、信太 の顔が目について。
そうや。
信太 やで。
信太 というのは仮 の名で、蔦子 さんがつけた。
こいつには、それとは別に、真 の名があるんや。
俺が水地亨 やのうて、深い水底の王の家 に棲 むエア様であるように、信太 にも、生まれた土地での名前があるんや。
その名を書き記 す文字は、たぶん漢字やない。
俺がアホやから読めない訳 やない。たぶん皆 も読めへんで。
もっと古い、古い時代の、絵のような文字で、そこには虎 がいて、燃 えさかる火のような文字が連 なっていた。
何て読むやら、わからへん。でも俺は、その名に祈 ったかもしれへん。
あるいは、水占 の神に。
すまんけど。お前が、逝 って。
アキちゃんを、死なせる訳 にはいかへんねん。
お前、言うてたやん。鯰 の生 け贄 になるのは、自分の運命 やみたいなことを。
それに鳥さんにも、スパルタ教育で不死鳥 育成 コース。それが狙 いやって、そんな話やったやん。
ほんなら、ええやん。たとえお前が選ばれも、それで予定通りやろ。
そうなるはずや。蔦子 さんがそう予知 したんや。絶対 そうなる。
そうやなかったら、俺は困 るんや。
アキちゃん守ってやるって、水煙 と約束 した。
守ってやりたい。アキちゃんはずっと、俺が守ってやるから……。
そう思う俺の目の前で、水盆 にはまた、微 かな震 えが走った。
水面が震 え、そのさざ波は、なんでか知らん、信太 ではなくアキちゃんを選ぼうとしていた。
鯰 が食いたい、その生 け贄 は、本間 暁彦 やと、震 える水が教えようとしてる。
あかんで、そんなん。
アキちゃんはもう、死んだりせえへん。俺とずっと永遠 に生きる。
信太 を選べ。
誰 か食いたいんやったら、虎 を食え。
俺のアキちゃんやのうて、虎 を食えばいい。
俺のアキちゃんに、手出しせんといてくれ!
強く念 じた、その気合 いが通じたんか。
それとも。
俺は水の神か。
さざ波が立つだけやった水盆 に、突然 渦 が巻 いた。
渦 は、本間暁彦 を引っつかみ、たちまちにして溺 れさせた。
そして、渦 から逃 れた、名も知れぬ古い虎 の神は、弾 き出 されて水盆 の端 へ。
ゆらゆら翻弄 されて、それでも浮 いていた。沈 む気配 もなく。水から拒 まれてるように、水面に留 まっていた。
信太 がちらりと目を上げて、俺の顔を見た。
それと目が合い、なんでか俺は、ぎくりとしていた。
偶然 やで、信太 。占 いや。
天地(あめつち)の思 し召 しや。恨 まんといてくれ。
恨 まんといて……。
そう気が咎 めて、俺は気がついていた。
俺は水占 いの結果を、弄 ったと思う。
俺は水を操 れる。それが真水 であれば。
かつて遠い遠い異郷 の地で、俺は川の王やった。川辺 の神殿 の、水底(みなそこ)の玉座 にいた。
俺は淡水 に君臨 する、蛇神 やったから。
そんな、昔とった杵柄 か。
俺はアキちゃんの代わりに死んでくれる奴 を、選んだんかもしれへん。
もしも、俺がもっと早くに、この部屋 に辿 り着 いていたら、誰 やお前っていうような、死んでも気が咎 めへんやつを、選んでやったかもしれへん。
信太 みたいな、俺にとっても死んでほしくない奴 でなく。
でももう、そこは、運命や。そうとしか言い様 がない。
俺が来たときには、もう運命は、二択 になっていた。
アキちゃんか虎 か。
俺にとっては、その問 いは、悩 む余地 のないもんやった。
ごめん信太 。俺がお前を、黄泉 に追いやったやろか。
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