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26-21 トオル
それを待っていたかのように、まるで示 し合 わせみたいに、会議室 の扉 が開いて、ものすご不機嫌 そうなメガネの氷雪 系 が、黒漆 の盆 に乗せた真っ白い土器(かわらけ)の盃 と、水が入っているらしい、黒漆 の水差 しを持ってきた。
「あれえ、啓 ちゃん、お疲 れ様 やな。こんな雑用 までお前がせんでもええのに」
茶化 したような口調 で言う信太 に、氷 雪系 はますますむすっとしていた。
「雑用 やない」
「そうやろか」
にこにこ答える信太 の顔を、氷雪 系 はじろっと見た。それだけで、顔の表面温度が二度は下がりそうな、冷たい目やった。
「知ってたんやったら、なんでもっと早 う言わへんのや。まるっきり蚊帳 の外 やったわ。言うても長い付き合いやのに。お前は水くさい」
ぶつぶつ言いながら、氷雪 系 は、黙 って見ている蔦子 さんに、黒塗 りの盆 を差し出した。
「ええー、なにそれ。啓 ちゃん俺のこと好きやったん?」
さも、びっくりしたように、信太 は口調 を作っていた。
からかってるんやろうけど、メガネの式(しき)はそれを無視 して、蔦子 さんが白い手でとって、水差 しから盃 に注ぐ、澄 んだ一筋 の水の流れを、見下ろしたまま答えた。
「お前が嫌 いなやつは、うちには居 らんかったやろ。なんだかんだで、お前はええ奴 やった」
そんな感想、初めて聞いたわという顔で、信太 は笑った。にやっと。
でもちょっと気まずそうに。たぶんちょっと、恥 ずかしかったんやろ。
「そうなんか。ありがとう啓 ちゃん。長いような短いような間やったけど、世話 んなったな。寛太 よろしく。俺がおらんようになっても、皆 で信じてやってな。あいつがこの街 を救 う、不死鳥 やってことを」
信太 はそう頼 んだけども、蔦子 さんが注 ぎ終 えた盃 の盆 を、身を返してアキちゃんと信太 のほうへ差し出した氷雪 系 の目は、分かった任 せろみたいな表情 ではなかった。
「そんなん、どうでもいい。俺にとっては、あいつが不死鳥 かどうかなんて、関係ない。なんでもええんや」
「薄情 やなあ、皆 」
困 ったように、信太 は詰 った。それでも氷雪 系 は、知ったことかな無表情 やった。
「薄情 なのは、お前のほうや。寛太 がどうなってもええんやな。不死鳥 でないと嫌 やなんて、お前は我 が儘 や。もし違 ったらどないすんのや。あいつはお前が好きなんやで。そのお前は死んでもうて、自分はただの鳥やったら、寛太 はどないなんねん。その時お前の死は、ずっとあいつの傷 になる。それに気が咎 めたまま、ずっと永遠 に生きていくんやで」
咎 められて、信太 はますます、困 ったような苦笑 やった。
「そうやけど、それは負けた場合やろ。勝てばええやん、この賭 に。それに誰 かが神戸 を救 わんかったら、あいつも神戸 とともに消える公算 が強い。寛太 だけやない。そんな運命(さだめ)の奴 は大勢 おるやろうって、蔦子 さん言うてたわ。ひょっとしたらお前もそうやで。六甲山 とのご縁 があんまり深 ければ、それが消えたら消える運命や」
「俺にも恩 を売ろうっていうんか」
険 しい無表情 で、氷雪 系 は水の盃 を乗せた盆 を、信太 の手元に差し出してやった。それを受け取れという仕草 で。
「違 うよ……啓 ちゃん。俺はあの甲子園 の家が好きやった。皆 で暮 らして、野球見て、楽しかったやろ。あれがずうっと、神戸 にあればいいと、思うだけやん。そこに俺がいてもいなくても、大差 はないやろ」
「そうやろか」
啓太 の声は、冷たくきっぱりとしていた。
そしてさらに、盃 をとれと、信太 の手元に盆 を差し出した。
取らなしゃあない。信太 はそう思ったらしく、二つ乗せられている白い水杯 の、浅い水面を零 さへんように、どことなく厳 かな手つきで取った。
その水面の底には、赤い色で、秋津 の家紋 である蜻蛉 の紋 が入っていた。
蔦子 さんは、結婚 したけど、まだまだ秋津 の女らしかった。
たぶんずっと永遠 に、秋津 の女なんやろう。
旦那 の姓 を名乗 って、海道 蔦子 になったけど、それも仮 の名。ほんまは今も、秋津 の分家 の当主 なんや。
男子が絶 えてた分家 の血筋 を、この人が受 け継 いで、守ってきた。秋津 登与 が本家 の当主 の部屋 の空席 を、戦後ずっと温めていたように。
「俺が逝 ってやってもいい。信太 。その盃 を俺に回せ。霊威 の点で、お前には及 ばへんかもしれへんけども、俺も一応 は、三都 の山々に君臨 しとう冬の王やで。まだ鯰 の相手くらいはできる」
強い説得 の口調で、啓太 は信太 にそう言うた。かき口説 かれる虎 の手元に、死に水を注 がれた小さな白い盃 があった。
「そうかなあ。鯰 様、かき氷は好きやろか。暑いしなあ。冷たいもん食いたいかもしれへんなあ。けど、啓 ちゃん。お前は全く甘 さがないねん。シロップ抜 きやったらいらんわって、鯰 様も言うんやないか。やめといたほうがええよ」
笑って拒 む信太 を、メガネは薄氷 のようなレンズの奥 から、伏 し目 に見ていた。
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