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26-23 トオル
そんな力が俺にあったと、アキちゃんは、まだ知らんかった。
知らぬが花や。知らんまま、ずっと生きていってもらいたい。
虎 の運命を弄 んだ神の手のなかに、俺の手もあったとは、気付かんままでいてほしい。
それは定 めや。流されてゆくだけや。水は高きから低きへ。理(ことわり)に従 って流れてゆく。
俺の愛 しい男をよけて、別の誰 かを死へと押 し流 す。そうなるように、俺がし向けた。
「許 してくれ……信太 。俺は龍 の相手をせなあかん。鯰 に食われて死んでたら、肝心 の龍 と、対決 できひんようになる。だからお前が…………助けてくれ」
死んでくれとは、アキちゃんはやっぱり、言われへんかったらしい。
それですら、信太 の目を見て言われへん。
アキちゃんは自分の手に持った、ゆらゆら揺 れる盃 の水面 を、見下ろしていた。
そこにある、秋津 の家紋 を。それを見つめて映 る、自分の目を。
「主上 、お助けいたします」
突如 、お堅 い口調になって、そう請 け合 う信太 の顔は、なんかすごく、晴 れやかやった。
ずっとモヤモヤ溜 まっていた何かが、すっきり晴れたみたいな。
「一命 を賭 して、主上 の民 をお救い申します。そしたら俺も、神になれるやろうか。もう一度、神威 のある虎 に、先生が戻 してくれるか」
そうに違 いないと信じて見つめる虎 を、アキちゃんは見つめ返し、言葉ではなく、ただ浅 く、何度か頷 いてみせていた。
なんの保証 もない。せやけど、きっとそうなると答えてやらんと、あまりにも薄情 やとアキちゃんは思ったんやろう。
それが、お前は死ねと命じる主 の、せめてもの甲斐性 や。
「そうか。それなら安心して逝 ける。盃 、頂戴 いたします。神戸 の宮水 やなあ。この儀式 にふさわしい」
にこにこして、信太 は白い盃 を見ていた。
「でも先生、せっかくやしな、俺は虎 です。肉食の獣 や。水よりもっと、食いでのあるもんがいい。肉を食わせろとは言いませんけど、せめて血の一滴 も、サービスしといてくれませんか」
手に持っていた盃 を、アキちゃんに差し出して、信太 はにこにこ、オネダリ顔やった。もっと入れてて、酌 を求めるような。
アキちゃんはそれに、ちょっとぽかんとしていた。
そんな抜 けてるジュニアのことを、すぐそばの車椅子 にいた水煙 様が、しゃあないなあという顔で見ていた。
「アキちゃん、血をやれ。お前の式(しき)にするんやから。水に一滴 混 ぜて、飲ませてやればええよ」
えっ。それっぽっちでええの。
がっつり吸血 かと思って、俺は一瞬 焦 ったよ。
ワンワンに半殺 しにされてたアキちゃんやのに、犬でそれなら、虎 やったらヤバいんちゃうか。マジで首折 れるんやないかって、ぞわっとしたわ。
信太 、案外 、行儀 がええな。
飢 えてないのもあるんやろけど、一滴 舐 めて、それでええんや。
手を出せと、青い指で差 し招 く水煙 の言うなりに、アキちゃんは自分も左腕 を差し出していた。
まるで献血 しにきた大学生かみたいな、そんな従順 な戸惑 い顔で。
その肌 の上に、水煙 がそうっと人差 し指を滑 らすと、そのあとには、何か鋭利 な刃物 で切られたような傷 が現 れた。
それは一応 、痛 いみたいやった。
アキちゃんは、顔をしかめて、見る間に塞 がろうとするその傷口 を自分の手で覆 った。
赤い血が一滴 、腕 を伝って流れ落ちてゆき、信太 はそれを、盃 で受けた。
清水 に深紅 の一滴 が混 ざり、そこから、なんともいえん甘 い匂 いがした。
たぶん外道 にしか感じられへん匂 いやろけど、まさに神仙 の世界の匂 い。
アキちゃんから漂 う、甘露 の匂 い。
濃厚 な霊力 が詰 まった、外道 どもの大好物 。人間の精気 や。
ごくりと唾 を飲むような、そんな気配 が部屋 のそこかしこからした。
皆 、腹 減 ってんのやろか。
そうでなくても、アキちゃん食いたい。外道 であれば誰 しもそう思う。
俺もそうやで、アキちゃん食いたい。こんなところでなければ、今すぐアキちゃんに抱 きついて、がっつり吸血 。いただきまあすって、貪 りたいわ。
なんかアキちゃん、確実 にクオリティ上がってる。
当社 比 で、三倍、四倍、もっとかな。開眼 してから、尋常 でない。
どうしよう、皆 が皆 、アキちゃんええなって、言 い寄 ってきたら。式神 だらけみたいになったら。
犬と水煙 だけでも、俺は一杯 一杯 やのに、これ以上、誰 か増 えたらどないしよ。
「ええ匂 いやな。さすが本家 の坊 と言うべきか」
にやり満足げに、この場で自分だけその甘露 を味わう権利 を持ってる虎 が、批評 した。
そしてそのまま、信太 は一気 に、盃 を呷 った。
迷 いのない飲みっぷり。
ただの水やし、それも当然かもしれへんけど、飲 み干 したあとの一息 は、まるで強い酒でも飲んだようやった。
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