598 / 928
26-24 トオル
ふはあと熱いため息で、信太 は一瞬 、酔虎 の目やった。
アキちゃんを斜 に見上げる信太 の黄色い琥珀 みたいな目の色が、こいつ、美味 そうやなあと、物欲 しそうに見えて、俺は思わず渋面 になった。
唇 に残る、ごく薄 ・水割 りの血を舐 めて、信太 はにやりとアキちゃんを見た。
「先生も、飲んでください。誓 いの盃 やしな、俺だけ飲んでも意味がない」
促 されてアキちゃんは、はっと気付いたように注がれていた水を飲み干 した。ほんのちょっと、ただ一口の宮水 やった。
でも、それだけで、信太 はアキちゃんの式神 になったんや。それが儀式 。
アキちゃんが信太 を放逐 せえへんかぎり、信太 は永遠 に、アキちゃんの虎 や。
「正体 見せようか、先生。俺が何者 か。精々 、一日限 りの主従 やけども、主 は主 や。俺の毛並 みも見といたら?」
信太 はちょっとほんまに、酔 うてるみたいやった。
まるでそんなふうな口振 りやった。調子 出てきた。そんな感じ。
でもまさか、たった一滴 の血で、虎 が酔 うはずがない。
もともと、そういう性格 の奴 やったんや。その本性 が、顕 れてきているだけで。
「化 けようか先生。猫科 好きです? ほんまもんの虎 に触 ったことある? ないやろ。それも、せっかくやしな、冥土 の土産 に、先生もちょっとだけ、お触 りしといたら?」
くすくす言うて、信太 は化 けた。どろんと化 けた。
狐 の秋尾 が化 けんのと、大差 なかった。
肩口 のあたりを掴 む仕草 で、まるで化 けの皮 でも剥 ぐように、信太 は何かを一気に剥 いだ。
その次の瞬間 には、たったの今まで信太 がいたところに、それが何かの間違 いやったように、突然 でかい虎 がいた。ぽん、と別の映像 を、差 し替 えてもうたみたいなシュールさで。
うわっと身構 える驚 きの空気が、唐突 に会議室 に湧 いた。
驚 いてへんのは、蔦子 さんくらいのもんやった。
今ではもう、主人ではない蔦子 さんやけど、満足げな笑 みで虎 を見る、その表情 は、長らくこの猛獣 を従 えていた、女主人 の顔やった。
四つ足で、会議室の床 に立っている信太 の、黄色と黒でお馴染 みの、豪華 な毛並 みで覆 われた猫 科の体は、いかにも柔軟 そうな猛獣 の肢体 で、それでも重々しく、力強かった。
手の平が、大人 の顔ぐらいある。
その手でシバキ倒 されたら、人生一巻 の終わり。
鋭 く白い牙 も、そんなんで噛 まれたら、一巻 の終わり。
爛々 と光る目も、そんなんで睨 まれたら、どんな獲物 も震 え上 がる。
理屈 抜 きの威力 を感じて、素直 に死を覚悟 する。それこそまさに神の目や。
その目と見つめ合って、アキちゃんは硬直 していた。
ビビって逃 げるかと思ったけど、アキちゃんはただじっと、信太 の目を見つめていた。
人の姿 をしていた時には、見るのも嫌 やみたいな顔をしていた信太 の顔を、それが虎 の姿 になったとたんに、なにか美しいものを見る目で見ていた。
確 かにそれは、美しい虎 やった。まるで名人 の筆 による名画 から抜 け出 てきたみたいに。
毛並 みの一本一本まで、精細 に描 き出された、黄色い縞 は黄金 で、黒い縞 は漆黒 の、芸術的 な虎 やった。
アキちゃんそれに、すっかり参 ってもうたみたい。
硬直 してる。瞬 きもせず見てる。それはアキちゃんが萌 えツボ☆ズギュンみたいになってまう絵を見つけた時の、いつものリアクションやねん。
虎 はそのリアクションが、気に入ったようやった。
虎 には表情 はないけど、ぎらぎら光る目が、笑っているように見えた。
一抱 えもあるような、でかいシマシマの頭を、信太 は猫 がじゃれるように、アキちゃんの腹 に擦 り寄 せた。うっとり甘 いような仕草 で。
アキちゃんはそれを、恐 る恐 るの手で撫 でた。
そして、ほんまの猫 にするみたいに、首の付け根の、猫 が喜 ぶところを、こりこり掻 いてやっていた。
信太 はごろごろ喉 を鳴らした。
猫 よりずっと、低くて怖 い音やった。
でも、それが、虎 の甘 えた声やということは、聞けば分かる。
こんなでかい虎 が、人になつくもんやったら、きっとこんなふうに、ごろごろ甘 えるんやろう。
ぶるぶる首を振 って、アキちゃんの指を振 り払 うと、信太 はうろうろその場で向きを変え、また唐突 に、どろんと化けた。
それはまた、人の姿 をしていた。目もさめるような、眩 しい色彩 をまとった。
でもそれは、いつもの極彩色 アロハの男ではない。
昔の中国の宮廷 の人らが、儀式 のときに着ていたような、きらびやかな刺繍 と、極彩色 の錦 で彩 られた、全体として黄色の服やった。
京劇 の役者か、まるでほんまに皇帝 に仕 える、神獣 の化身 のようやった。
みなぎる霊威 を、信太 はもう隠 してはいなかった。
由緒 正しき、高貴 な虎 や。
元はそういう神やった。俺がかつては有 り難 い、川辺 の神やったのと同じで。
ともだちにシェアしよう!