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26-24 トオル

 ふはあと熱いため息で、信太(しんた)一瞬(いっしゅん)酔虎(すいこ)の目やった。  アキちゃんを(ななめ)に見上げる信太(しんた)の黄色い琥珀(こはく)みたいな目の色が、こいつ、美味(うま)そうやなあと、物欲(ものほ)しそうに見えて、俺は思わず渋面(じゅうめん)になった。  (くちびる)に残る、ごく(うす)水割(みずわ)りの血を()めて、信太(しんた)はにやりとアキちゃんを見た。 「先生も、飲んでください。(ちか)いの(さかずき)やしな、俺だけ飲んでも意味がない」  (うなが)されてアキちゃんは、はっと気付いたように注がれていた水を飲み()した。ほんのちょっと、ただ一口の宮水(みやみず)やった。  でも、それだけで、信太(しんた)はアキちゃんの式神(しきがみ)になったんや。それが儀式(ぎしき)。  アキちゃんが信太(しんた)放逐(ほうちく)せえへんかぎり、信太(しんた)永遠(えいえん)に、アキちゃんの(とら)や。 「正体(しょうたい)見せようか、先生。俺が何者(なにもん)か。精々(せいぜい)、一日(かぎ)りの主従(しゅじゅう)やけども、(あるじ)(あるじ)や。俺の毛並(けな)みも見といたら?」  信太(しんた)はちょっとほんまに、()うてるみたいやった。  まるでそんなふうな口振(くちぶ)りやった。調子(ちょうし)出てきた。そんな感じ。  でもまさか、たった一滴(いってき)の血で、(とら)()うはずがない。  もともと、そういう性格(せいかく)(やつ)やったんや。その本性(ほんしょう)が、(あらわ)れてきているだけで。 「()けようか先生。猫科(ねこか)好きです? ほんまもんの(とら)(さわ)ったことある? ないやろ。それも、せっかくやしな、冥土(めいど)土産(みやげ)に、先生もちょっとだけ、お(さわ)りしといたら?」  くすくす言うて、信太(しんた)()けた。どろんと()けた。  (きつね)秋尾(あきお)()けんのと、大差(たいさ)なかった。  肩口(かたぐち)のあたりを(つか)仕草(しぐさ)で、まるで()けの(かわ)でも()ぐように、信太(しんた)は何かを一気に()いだ。  その次の瞬間(しゅんかん)には、たったの今まで信太(しんた)がいたところに、それが何かの間違(まちが)いやったように、突然(とつぜん)でかい(とら)がいた。ぽん、と別の映像(えいぞう)を、()()えてもうたみたいなシュールさで。  うわっと身構(みがま)える(おどろ)きの空気が、唐突(とうとつ)会議室(かいぎしつ)()いた。  (おどろ)いてへんのは、蔦子(つたこ)さんくらいのもんやった。  今ではもう、主人ではない蔦子(つたこ)さんやけど、満足げな()みで(とら)を見る、その表情(ひょうじょう)は、長らくこの猛獣(もうじゅう)(したが)えていた、女主人(おんなしゅじん)の顔やった。  四つ足で、会議室の(ゆか)に立っている信太(しんた)の、黄色と黒でお馴染(なじ)みの、豪華(ごうか)毛並(けな)みで(おお)われた(ねこ)科の体は、いかにも柔軟(じゅうなん)そうな猛獣(もうじゅう)肢体(したい)で、それでも重々しく、力強かった。  手の平が、大人(おとな)の顔ぐらいある。  その手でシバキ(たお)されたら、人生一巻(いっかん)の終わり。  (するど)く白い(きば)も、そんなんで()まれたら、一巻(いっかん)の終わり。  爛々(らんらん)と光る目も、そんなんで(にら)まれたら、どんな獲物(えもの)(ふる)()がる。  理屈(りくつ)()きの威力(いりょく)を感じて、素直(すなお)に死を覚悟(かくご)する。それこそまさに神の目や。  その目と見つめ合って、アキちゃんは硬直(こうちょく)していた。  ビビって()げるかと思ったけど、アキちゃんはただじっと、信太(しんた)の目を見つめていた。  人の姿(すがた)をしていた時には、見るのも(いや)やみたいな顔をしていた信太(しんた)の顔を、それが(とら)姿(すがた)になったとたんに、なにか美しいものを見る目で見ていた。  (たし)かにそれは、美しい(とら)やった。まるで名人(めいじん)(ふで)による名画(めいが)から()()てきたみたいに。  毛並(けな)みの一本一本まで、精細(せいさい)(えが)き出された、黄色い(しま)黄金(おうごん)で、黒い(しま)漆黒(しっこく)の、芸術的(げいじゅつてき)(とら)やった。  アキちゃんそれに、すっかり(まい)ってもうたみたい。  硬直(こうちょく)してる。(またた)きもせず見てる。それはアキちゃんが()えツボ☆ズギュンみたいになってまう絵を見つけた時の、いつものリアクションやねん。  (とら)はそのリアクションが、気に入ったようやった。  (とら)には表情(ひょうじょう)はないけど、ぎらぎら光る目が、笑っているように見えた。  一抱(ひとかか)えもあるような、でかいシマシマの頭を、信太(しんた)(ねこ)がじゃれるように、アキちゃんの(はら)()()せた。うっとり(あま)いような仕草(しぐさ)で。  アキちゃんはそれを、(おそ)(おそ)るの手で()でた。  そして、ほんまの(ねこ)にするみたいに、首の付け根の、(ねこ)(よろこ)ぶところを、こりこり()いてやっていた。  信太(しんた)はごろごろ(のど)を鳴らした。  (ねこ)よりずっと、低くて(こわ)い音やった。  でも、それが、(とら)(あま)えた声やということは、聞けば分かる。  こんなでかい(とら)が、人になつくもんやったら、きっとこんなふうに、ごろごろ(あま)えるんやろう。  ぶるぶる首を()って、アキちゃんの指を()(はら)うと、信太(しんた)はうろうろその場で向きを変え、また唐突(とうとつ)に、どろんと化けた。  それはまた、人の姿(すがた)をしていた。目もさめるような、(まぶ)しい色彩(しきさい)をまとった。  でもそれは、いつもの極彩色(ごくさいしき)アロハの男ではない。  昔の中国の宮廷(きゅうてい)の人らが、儀式(ぎしき)のときに着ていたような、きらびやかな刺繍(ししゅう)と、極彩色(ごくさいしき)(にしき)(いろど)られた、全体として黄色の服やった。  京劇(きょうげき)の役者か、まるでほんまに皇帝(こうてい)(つか)える、神獣(しんじゅう)化身(けしん)のようやった。  みなぎる霊威(れいい)を、信太(しんた)はもう(かく)してはいなかった。  由緒(ゆいしょ)正しき、高貴(こうき)(とら)や。  元はそういう神やった。俺がかつては()(がた)い、川辺(かわべ)の神やったのと同じで。

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