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26-37 トオル

 アキちゃん、脚立(きゃたつ)の上でパレット持って、(こま)ったなあって顔をしていた。  筆持ったままの手で、頭()いてるアキちゃん見てると、ただの暢気(のんき)絵描(えか)きさんみたいやった。 「動かへんモンを(えが)けばええんやで先生。それか、目に(ひとみ)を入れへんようにしろ。暁彦(あきひこ)様はそうしてた。仕上(しあ)げたらあかんのや」 「そんなん言うても、せっかく()いたら仕上げたいやんか……」  ぶちぶち言うてるアキちゃん、また(おぼろ)様に(あま)え声やったで。  てめえ! よくも俺様(おれさま)の見ている前で、またやりやがったな! 「アキちゃん、なんか光るモン()いたら? ここ、夜までずっと宴会(えんかい)なんやろ? 俺、ホタル見たいわ。今年(ことし)、結局、ホタル()り行かれへんかったやんか?」  藤堂(とうどう)さんといい雰囲気(ふんいき)になっている場合ではない。そうこうしてる間に本命のほうが(ほか)といちゃついている。そう思って俺は気を()()め、アキちゃんのほうへ行った。  脚立(きゃたつ)の下の方にとりついて、アキちゃんを見上げると、俺のツレは俺の提案(ていあん)が、気に入ったようやった。 「そういや今年(ことし)、ホタル見てへんなぁ……」  すでにもう、頭ん中で絵を()いている顔をして、アキちゃんはうっすら、ご機嫌(きげん)そうやった。  絵さえ(えが)いてりゃお幸せやねん。アキちゃんはな。  その顔をまた久々(ひさびさ)の感がありつつ(なが)めると、俺もなんでか、幸せやった。  パレットの上で、絵の具こねこねしてるアキちゃん見てると、なんでか知らん、俺は幸せ。 「あのなあ、瑞希(みずき)。悪いけど、この(うめ)の絵、消してもええか?」  パレットを見つめた(うわ)(そら)で、アキちゃん微妙(びみょう)にひどいことを、さらっと言うてた。  犬はぐったり、(うめ)の木の根本で(すわ)り、うじうじしていた。 「いいですよ。先輩(せんぱい)との(はつ)の正式コラボかと思ったら、(うぐいす)一瞬(いっしゅん)で飛んでいったしね……サクッと消しといてください」  なんやろ。瑞希(みずき)ちゃんの(まわ)りだけキノコ生えそうに湿(しめ)ってる。  そして暗い。  お前なに()()んでんの。  アキちゃんとお絵かきしたかったんか。  ほんなら(その)先生アートやめなあかん。  アキちゃん、下手(へた)絵には興味(きょうみ)ないねん。そういう、冷たい(おに)やねんからな。 「どうやって消すの?」  てめえ、また(あめ)え声で(おぼろ)様と話しとるやないか、俺のツレ!  正直、ピクピク来たけど、俺はなんとか笑顔(えがお)(たも)って、脚立(きゃたつ)の下にとりついていた。 「()がせばええねん。一枚(いちまい)()いでみ? こう、ぺらーっと、(めく)るんや」  全く説明になってないことを、怜司(れいじ)兄さんは言うたけど、アキちゃんはそれで、(ため)してみようと思ったらしい。  眉間(みけん)にしわ()せて、筆を持ってるほうの右手で、何かの(はし)っこを(さが)しているような仕草(しぐさ)で、空中をごそごそしていたかと思ったら、ふと何か、(つか)んだようやった。  そしてそのまま、でかいポスターを()要領(ようりょう)で、アキちゃんは絵を、ぺらーっと()いだ。  それに、ぎょぎょーってなってるのは、藤堂(とうどう)さんだけやった。 「もっと、大きい筆か刷毛(はけ)ない?」  ()いだ絵を、(なさ)容赦(ようしゃ)なくクシャクシャポイしながら、アキちゃんは脚立(きゃたつ)の足もとにあった、細長い木の画材(がざい)ケースを(のぞ)()み、犬にそう()いた。  ありますよと言って、犬はアキちゃんに、絵筆を(わた)してやっていた。  それと一緒(いっしょ)に取らせたテレピン油を、パレットにある油壺(あぶらつぼ)にとぽとぽたっぷりと(そそ)いで、アキちゃんは、いかにも(うれ)しそうな爛々(らんらん)とした目で、暗い(かげ)色の絵の具を(うす)めに()っていた。  そうしてアキちゃんが刷毛(はけ)太筆(ふとふで)で一気に(えが)いたのは、影絵(かげえ)水墨画(すいぼくが)みたいな、大きい樹影(じゅえい)やった。  (はぎ)やろか。普通(ふつう)より、(うす)めに()いた()びのいい油絵の具で、まるで日本画のような絵を()いていた。  あっと言う間に()き上げられていく()のシルエットは、川辺の木立(こだち)やった。  まだ真っ昼間やのに、まるでそこだけ夕闇(ゆうやみ)が、(せま)ってきたみたいに見えた。  ずらりと(なら)んだ(すず)しげな木立(こだち)に満足すると、アキちゃんは銀色の絵の具で、流水(りゅうすい)を(えが)いた。  日本画で、水の流れを表す、模式(もしき)化された文様(もんよう)やで。  伝統的(でんとうてき)な文様やけども、日本画の絵で一番有名なのは、尾形(おがた)光琳(こうりん)の、「紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)」やろう。  美術(びじゅつ)の教科書とか、日本史の教科書とかで、(みな)もいっぺんくらいは見たことあるんやないか?  惚気(のろけ)て言うんやないけど、アキちゃんがこの時()いてた流水(りゅうすい)も、あれに負けずとも(おと)らず、イケてる絵やったわ。  そう思うんは、やっぱり俺の惚気(のろけ)かな?  とにかく(すず)しげ。そんな風景が見る間に(えが)けて、アキちゃんは筆を細いのに()()えた。ホタル()くんやろう。  今までの、大胆(だいたん)筆遣(ふでづか)いとは打って変わって、アキちゃんはちまちま()いた。虫やしな。小さいんやから。  細く(とが)らせた筆先(ふでさき)が、ちょこちょこ何かを()くと、それが仕上(しあ)がったそばから、ぼうっと(あわ)い、蛍火(ほたるび)(はな)った。緑かがった、ほのかな光や。

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