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26-38 トオル
でも、真昼の中庭で、そんな光が見えるわけはない。
それは絵やった。ホタルが川辺 で光り、ふわふわ飛び交 っている。そういう絵なんやけど、その絵も生きてた。
絵は絵として、描 かれたその位相 の中で、次々描 き出 されたホタルたちが、自由きままに飛 び交 いはじめていた。
「動いてる……」
呆然 と、へたり込 んだみたいな姿 のまま、瑞希 ちゃんが絵を見上げていた。
なんかもう、なんて言うてええやらと、うっとり来てるような、打ちのめされてるような、そんなぼんやりした声やった。
「先輩 、俺に、お前の描 く絵は動いててすごいなあて言うてたけど……先輩 の絵のほうが、すごいやん」
じっとり拗 ねたように言う瑞希 ちゃんは、恨 みがましかった。
アキちゃんはそれに苦笑 の声で笑い、それでもまだ絵を描 き続けていた。
「お前もまた描 いたらええやん。三万年も描 いてへんのやろ。それは筆 も鈍 るよ。三日休んだら三ヶ月っていうやん。芸事 の勘 が戻 るまで」
「三十倍? ほんなら俺、あと九十万年くらい、苑 先生状態 ?」
悲劇 やな、それは。
ていうか瑞希 ちゃん、苑 先生のこと、なんやと思うてたん?
「そんなにかからへんよ」
励 ます口調 でアキちゃんは犬にそう言 うてやり、それから脚立 の上で、俺を探 した。
「もっと描 くか?」
ホタルのことを、言ってんのやろう。
樹影 に紛 れて、沢山 のホタルが飛 び交 っていた。
綺麗 やなあって、それを眺 める人々の目が、アキちゃんの描 いた絵と、それを描 いているアキちゃんを、素晴 らしいモンとして見つめているのが、俺には分かった。
それはなにか、こそばゆいような嬉 しさやった。
アキちゃんが世の中の人らに、認 めてもらえると、俺は嬉 しい。
俺だけのモンにしておきたいような気もするけども、こいつの描 く絵は、そういうモンやない。
皆 で眺 めて、すごいなあ、綺麗 やなあって、喜んでもらうようなモンや。
それで初めて、絵は本当に生きることができる。生きて動いているような絵でも、誰 も見ないまま死蔵 されたら、きっと死んでしまうやろ。
「もういいよ、アキちゃん。充分 いっぱい飛んでる」
俺は微笑 んで、アキちゃんを見上げた。
アキちゃんは、にこにこしていた。最初に東山 のホテルのバーで、コースターに七面鳥 の絵を描 いてにこにこしていた時のアキちゃんと、同じ顔やった。
その顔が、他 の誰 でもない、俺だけを見てることに、俺はこの時すごく、満足していた。
アキちゃんはこの絵を、俺のために描 いてくれたんやろう。俺が喜ぶと思って、描 いてくれたんやろう。
そしてそれを見て喜んでいる俺を眺 め、アキちゃんは嬉 しなって、にこにこしてんのやろう。
それは、俺の好きなアキちゃんで、俺はこの男と、ずいぶん久 しぶりに会 うたような気がした。
「やっぱり暁彦 様とは画風 がぜんぜん違 うなあ」
感心 したふうに、朧 はそう言い、それはたぶん、水煙 に話しかけてるんやった。
だって、アキちゃんのおとんの絵を見たことがあるのって、水煙 ぐらいやないか?
「そうやろか。俺には全然 わからん」
ほんまに分からんらしい水煙 様が、きっぱりとそう断言 していた。
あのなあ兄さん。ここは、そうやなあて言うてやるとこやん。
アキちゃん気にしてんのやしさ。意識 してんのやから、絵師 としてのおとんのことも!
「お前、ほんっまに絵のことはサッパリ分からんのやな。話には聞いてたけど」
「サッパリ分からん。正直いって、さっきの犬の絵のどこがあかんのかも、よう分からん。上手 なような気がしたんやけど。この絵とどう違 うんや?」
車椅子 の端 っこに偏 って座 り、水煙 は足組んで、肘掛 けにぐんにゃり凭 れていた。
どうも疲 れたらしい。
水煙 には、人型を保 ってることも、まだまだけっこう大変やったらしいんや。
なんや退屈 やし、太刀 に戻 りたいなあって、そんな素振 りやった。
「あっかんやろ、ほんまに。犬の絵は全然イケてなかったやろ。それとこれが同じに見えんのかお前は」
めちゃくちゃ言うてる怜司 兄さんの話に、ワンワン泣いてた。
燃 え尽 きたジョーみたいになってた。しゃあないな。全然イケてない言われたらしゃあないわ。燃 え尽 きるわあ。
「わからへん」
水煙 は困 ったように顔をしかめていたけど、堂々 わからへん宣言 やった。
アキちゃんも脚立 の上て苦笑 して、正直微妙 そうやった。
「芸術 オンチやな!」
怜司 兄さんに断言 されて、水煙 は横目 に目をそらしていたが、反論 はせえへんかった。自分でもそう思うらしいわ。
まあ、ええやん。神にも何かひとつくらい、欠点があるほうが可愛 いよ。
そんなんせんでも、時々危険 なまでにお前は可愛 いねんから、そんなんせんといてほしいねんけどな。
「そんなんやから、暁彦 様が絵描 きになりたい言うてんのを、あかんて言えたんやな。勿体 ないことしたで。絶対 、名のある絵師 になれたのに」
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