625 / 928

26-51 トオル

 にっこりと、微(かす)かに苦笑(くしょう)の気配(けはい)も混(ま)じる笑(え)みで言うて、信太(しんた)はアキちゃんに感謝(かんしゃ)していた。  そしてそのまま、飛び去った赤い鳥さんを探(さが)して、信太(しんた)は中庭に集まり始めていた、人や人でないものの、人垣(ひとがき)の中に紛(まぎ)れて去(さ)った。 「うるさい連中(れんちゅう)やなあ、アキちゃん」  やれやれみたいに、車椅子(くるまいす)の水煙(すいえん)がぼやいた。  そんな憎(にく)まれ口(ぐち)に、アキちゃんはただ、苦笑(くしょう)しただけやった。  水煙(すいえん)がどこまでマジで言うてんのか、わからへん。  案外ほんまにそう思うてんのかも。  朧(おぼろ)も信太(しんた)も、水煙(すいえん)様には、あんまり好みのタイプの式(しき)ではないのやろうしな。  好みのタイプというたら、そら、瑞希(みずき)ちゃんやろ。大人(おとな)しくて、分(ぶん)を弁(わきま)えていて、命令したら素直(すなお)に言うことをきく。 「おい犬。朧(おぼろ)に何か教わったか。絵だけ描(か)いとったんか」 「……そうです」  脚立(きゃたつ)の脚(あし)もとに座(すわ)り込(こ)んだままやった瑞希(みずき)ちゃんは、水煙(すいえん)に愛想(あいそ)もなく訊(き)かれ、怖(お)ず怖(お)ず答えていた。  その返答に、水煙(すいえん)はチッと、軽い舌打(したう)ちのような音を立てた。 「なにをやってんのや、あいつは。ちゃんと仕込(しこ)めと言うといたのに。しょうがない。色事(いろごと)ばかりに現(うつつ)を抜(ぬ)かして。あいつはいつもそうなんや。俺がいろいろ教えてやるから、お前ちょっと、この車椅子(くるまいす)押(お)して、ついてこい」  忌々(いまいま)しそうにため息ついて、水煙(すいえん)は犬に命令した。  瑞希(みずき)ちゃんはそれに、びっくりしたみたいやった。 「えっ。でも、先輩(せんぱい)のとこ居(い)とかなあかんのやないですか。さっきの虎(とら)の人、そう言うてたけど……」  信太(しんた)が虎(とら)やって、瑞希(みずき)ちゃんにも分かるんや。  珍(めずら)しくも口答(くちごた)えする犬を、水煙(すいえん)はじろりと睨(にら)んだ。  怖(こわ)い目やった。  こいつのどこが清純(せいじゅん)派(は)やねん。どう見ても怖(こわ)いイケズな小姑(こじゅうと)や。 「そんなん、いよいよになってからでええんや。蔦子(つたこ)の予知(よち)は外(はず)れへん。あの子が明日(あした)やと言うたら明日(あした)なんや。秋津(あきつ)の娘(むすめ)やで。血筋(ちすじ)を信じろ」  そうや。秋津(あきつ)の祖先(そせん)神には月読(つくよみ)もいてはる。  それは時を司(つかさど)る神さんや。時間や予知(よち)には、強いんやで。  詳(くわ)しい話は訊(き)いても教えてくれへんのやけど、水煙(すいえん)が、最初に仕(つか)えていた主神(しゅしん)は、この月読命(つくよみのみこと)やないやろか。  忘(わす)れちゃいけない。  秋津(あきつ)家に伝わる伝承(でんしょう)によれば、水煙(すいえん)様には、時を巻(ま)き戻(もど)す力がある。  神業(かみわざ)や。水煙(すいえん)のその能力(のうりょく)は、月読命(つくよみのみこと)に由来(ゆらい)している。  時を司(つかさど)る神の随神(ずいじん)やったから、ご主人様のその力の一部を、こいつも分(わ)け与(あた)えられていたんや。  なんせ、月の欠片(かけら)なんやしな、水煙(すいえん)は。 「アキちゃん、俺は月が昇(のぼ)る頃合(ころあ)いに、また戻(もど)る。それまで戦(いくさ)の前の、骨休(ほねやす)めをしておけ」  それまでは戻(もど)ってこないと、言外(げんがい)に言い置いて、水煙(すいえん)は犬を連れて行った。  見た目上は、犬が水煙(すいえん)を連れて行ったんやけど、実際(じっさい)のところは逆(ぎゃく)やった。  去り際(ぎわ)、水煙(すいえん)は、ちらりと俺を横目に見たけど、その目はイケズそうでも、嫌(いや)みでもなかった。  何を考えてんのかわからんような、深い水の底の暗がりを、覗(のぞ)き込(こ)まされたような、深く黒い無表情(むひょうじょう)な目やった。  水煙(すいえん)は俺に、気を利(き)かせたんやろう。アキちゃんを譲(ゆず)ってくれた。  下手(へた)すりゃこれが最後の夜や。  別れを惜(お)しむなら、二人(ふたり)きりがええやろうと、あいつは思うたんやろ。  なんで水煙(すいえん)が、そんなことをするんやろ。  それは、俺のためやったんやろか。  あいつがそんなことする訳(わけ)がない。  そんなら、それは、アキちゃんのためか。なんでそれが、アキちゃんのためになるんやろ。  大好きな水煙(すいえん)様や、お気に入りの犬がおらんようになったら、アキちゃんガッカリやないの?  そうやないのか。  後に残されたのは、俺とアキちゃんと藤堂(とうどう)さんだけで、そのオッサンですら、気を遣(つか)うつもりらしかった。  にこにこ笑って、藤堂(とうどう)さんは去る素振(そぶ)りやった。  嫁(よめ)にぶん殴(なぐ)られた顎(あご)の青あざは、虎(とら)と雀(すずめ)と赤い鳥さんの、妖怪(ようかい)人生劇場(げきじょう)を見ている間に、すっかり消えて、元の通りの渋(しぶ)い男前に戻(もど)ってもうてた。 「落とし前つけるのは、また後ほどにしておきましょうか、本間(ほんま)先生」  そう言うて、オッサンは脚立(きゃたつ)の上で、まだ呆然(ぼうぜん)みたいなアキちゃんに、軽い会釈(えしゃく)をした。 「嫁(よめ)が怖(こわ)いし、ご機嫌(きげん)とってきます」  まんざら冗談(じょうだん)でもなさそうな口振(くちっぷ)りで、藤堂(とうどう)さんは笑い、すたすたと去った。  俺とアキちゃんは、ぽかんと突(つ)っ立(た)ったまま、そのオッサンの行く先を見ていたが、中庭からガラスの入ったフランス窓(まど)をくぐって、ロビーに入ろうとしたあたりで、藤堂(とうどう)さんは朝飯屋(あさめしや)のジョージに呼(よ)び止(と)められ、がっつりハグされ、がっつりキスされていた。  ご挨拶(あいさつ)かな。  ご挨拶(あいさつ)やろな、きっと。  そうでないなら、遥(よう)ちゃんにまた殴(なぐ)られる。  こんどは半殺しかもしれへん。  嫁(よめ)に見られていないことを、今は祈(いの)るのみやで。 「モテんねんな……中西(なかにし)さん……」  ぼんやりと、アキちゃんがそう言うていた。

ともだちにシェアしよう!