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26-51 トオル
にっこりと、微 かに苦笑 の気配 も混 じる笑 みで言うて、信太 はアキちゃんに感謝 していた。
そしてそのまま、飛び去った赤い鳥さんを探 して、信太 は中庭に集まり始めていた、人や人でないものの、人垣 の中に紛 れて去 った。
「うるさい連中 やなあ、アキちゃん」
やれやれみたいに、車椅子 の水煙 がぼやいた。
そんな憎 まれ口 に、アキちゃんはただ、苦笑 しただけやった。
水煙 がどこまでマジで言うてんのか、わからへん。
案外ほんまにそう思うてんのかも。
朧 も信太 も、水煙 様には、あんまり好みのタイプの式(しき)ではないのやろうしな。
好みのタイプというたら、そら、瑞希 ちゃんやろ。大人 しくて、分 を弁 えていて、命令したら素直 に言うことをきく。
「おい犬。朧 に何か教わったか。絵だけ描 いとったんか」
「……そうです」
脚立 の脚 もとに座 り込 んだままやった瑞希 ちゃんは、水煙 に愛想 もなく訊 かれ、怖 ず怖 ず答えていた。
その返答に、水煙 はチッと、軽い舌打 ちのような音を立てた。
「なにをやってんのや、あいつは。ちゃんと仕込 めと言うといたのに。しょうがない。色事 ばかりに現 を抜 かして。あいつはいつもそうなんや。俺がいろいろ教えてやるから、お前ちょっと、この車椅子 押 して、ついてこい」
忌々 しそうにため息ついて、水煙 は犬に命令した。
瑞希 ちゃんはそれに、びっくりしたみたいやった。
「えっ。でも、先輩 のとこ居 とかなあかんのやないですか。さっきの虎 の人、そう言うてたけど……」
信太 が虎 やって、瑞希 ちゃんにも分かるんや。
珍 しくも口答 えする犬を、水煙 はじろりと睨 んだ。
怖 い目やった。
こいつのどこが清純 派 やねん。どう見ても怖 いイケズな小姑 や。
「そんなん、いよいよになってからでええんや。蔦子 の予知 は外 れへん。あの子が明日 やと言うたら明日 なんや。秋津 の娘 やで。血筋 を信じろ」
そうや。秋津 の祖先 神には月読(つくよみ)もいてはる。
それは時を司 る神さんや。時間や予知 には、強いんやで。
詳 しい話は訊 いても教えてくれへんのやけど、水煙 が、最初に仕 えていた主神 は、この月読命 やないやろか。
忘 れちゃいけない。
秋津 家に伝わる伝承 によれば、水煙 様には、時を巻 き戻 す力がある。
神業 や。水煙 のその能力 は、月読命 に由来 している。
時を司 る神の随神 やったから、ご主人様のその力の一部を、こいつも分 け与 えられていたんや。
なんせ、月の欠片 なんやしな、水煙 は。
「アキちゃん、俺は月が昇 る頃合 いに、また戻 る。それまで戦(いくさ)の前の、骨休 めをしておけ」
それまでは戻 ってこないと、言外 に言い置いて、水煙 は犬を連れて行った。
見た目上は、犬が水煙 を連れて行ったんやけど、実際 のところは逆 やった。
去り際 、水煙 は、ちらりと俺を横目に見たけど、その目はイケズそうでも、嫌 みでもなかった。
何を考えてんのかわからんような、深い水の底の暗がりを、覗 き込 まされたような、深く黒い無表情 な目やった。
水煙 は俺に、気を利 かせたんやろう。アキちゃんを譲 ってくれた。
下手 すりゃこれが最後の夜や。
別れを惜 しむなら、二人 きりがええやろうと、あいつは思うたんやろ。
なんで水煙 が、そんなことをするんやろ。
それは、俺のためやったんやろか。
あいつがそんなことする訳 がない。
そんなら、それは、アキちゃんのためか。なんでそれが、アキちゃんのためになるんやろ。
大好きな水煙 様や、お気に入りの犬がおらんようになったら、アキちゃんガッカリやないの?
そうやないのか。
後に残されたのは、俺とアキちゃんと藤堂 さんだけで、そのオッサンですら、気を遣 うつもりらしかった。
にこにこ笑って、藤堂 さんは去る素振 りやった。
嫁 にぶん殴 られた顎 の青あざは、虎 と雀 と赤い鳥さんの、妖怪 人生劇場 を見ている間に、すっかり消えて、元の通りの渋 い男前に戻 ってもうてた。
「落とし前つけるのは、また後ほどにしておきましょうか、本間 先生」
そう言うて、オッサンは脚立 の上で、まだ呆然 みたいなアキちゃんに、軽い会釈 をした。
「嫁 が怖 いし、ご機嫌 とってきます」
まんざら冗談 でもなさそうな口振 りで、藤堂 さんは笑い、すたすたと去った。
俺とアキちゃんは、ぽかんと突 っ立 ったまま、そのオッサンの行く先を見ていたが、中庭からガラスの入ったフランス窓 をくぐって、ロビーに入ろうとしたあたりで、藤堂 さんは朝飯屋 のジョージに呼 び止 められ、がっつりハグされ、がっつりキスされていた。
ご挨拶 かな。
ご挨拶 やろな、きっと。
そうでないなら、遥 ちゃんにまた殴 られる。
こんどは半殺しかもしれへん。
嫁 に見られていないことを、今は祈 るのみやで。
「モテんねんな……中西 さん……」
ぼんやりと、アキちゃんがそう言うていた。
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