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26-55 トオル
「知り合いという訳 やないの。私 ……信者 なの。あの人、教会で、お説教をしていたの。聖書 の話よ。なんやったかしら。ヨハネによる福音書 。ローマからいらした、偉 い神父様やということでね。私 それに、感激 したのよ。あれは……なんやったのかしら」
なんか不思議 な夢 を見たみたいに、小夜子 姫 はぽかんとしていた。
ついて行けてないみたいやった。現実 に。
「何やったか知りませんけど、神楽 さん、頭ええらしいから、適当 にそれっぽいこと言うてたんでしょう。知りたいんやったら、本人に訊 いてみてください。そこらへんに居 るはずやから」
「神父様にそんなこと訊 いて……失礼やないかしら」
神楽 遥 が目から怪光線 でも出せるみたいに、小夜子 さんはあいつを畏 れてた。
それは聖職者 の持つオーラやったんかもしれへん。
そしてヤハウェの持つ神威 でもあった。
あいつはヤハウェの神兵 で、その威容 を世界に知らしめるために働く、神の下僕 やったわけ。
今や脱走兵 やけど、それでも小夜子 さんは、そんなにころっと頭切 り替 えられへんのやろ。遥 ちゃんみたいに破廉恥 やないねん。
うろたえている小夜子 さんに、アキちゃんは気まずい顔やった。
「そんなん気にせんでも、ただの人ですよ、神楽 さんは。いや、ただ者やないような気はしますけど。でも……同じ人間やないですか? 歳 かて、俺よりひとつ上なだけやし、日本語も普通 に話せるんですよ? 普通 どころか、めちゃめちゃ神戸 弁 なんです。せやし、あの話、嘘 やったんですかって、訊 けばいいだけですよ」
アキちゃんの話に、小夜子 さんは微 かに、お口ぱくぱくしていた。
それも今にも倒 れそうな、青い顔やった。
まさか遥 ちゃんの神戸 弁 にびびったわけやないやろ。カルチャーショックにあわあわ来てるだけや。
もうええやん、アキちゃん。お前にはわからへんのや。キリスト教徒の気持ちなんて。
小夜子 さんは、イイ子やったんやろ。洗脳 されてた。
教会で語られる荘厳 な戒律 や、これが正義 という、ヤハウェの意向 に、深く納得 していた。
神父は偉 いと信じていたんや。神聖 なんやって。ただの人とは違 うんやって。
その神父が破戒 したなんて、世界が引 っ繰 り返 ってもうたようなもんやで。小夜子 ワールド大ピンチや。
「本間 君と、亨 ちゃんて……実はずっと……その……付き合 うてたの? 好き、なの? その、友達 としてじゃなく」
「好きです。友達 としてじゃなく」
居直 ってんのか、アキちゃん、即答 で断言 していた。
わかりやすすぎた。誤解 の余地 はこれっぽっちもなかった。
「つまり恋人 なの?」
それでも小夜子 さんは、すごく難解 な問題に取り組んでるような顔で、その話をしていた。
解 けへん数学の問題集の解 き方 を、デキる同級生 に訊 いてる、クラスの可愛 い女の子が、そのまんま大人 になってるみたいな姿 やった。
「いや、恋人 やないです。結婚 してるから。配偶者 です。俺のツレ。小夜子 さんと、師範 みたいなもん」
「そんなこと、できるものなの? だって、親御 さんは、なんていうの。男の子どうしだと、子供 だってできないのよ?」
それが心配みたいな、小夜子 おばちゃまの話に、アキちゃんは一瞬 だけ、言 い淀 んだ。
でも、言うしかないと思ったんか。ただデリカシーがないだけか、アキちゃんは結局 、ずけずけ言うてた。
「小夜子 さんとこだって、子供 いないじゃないですか」
その話に、小夜子 さんの大きなお目々が、ぐるっと視線 を彷徨 わせた。
何を見たらええか、ものすごく動揺 したような、パニくった顔やった。
ひらひらカクテルドレスの裾 を握 って、小夜子 姫 はおどおど言うた。震 えてるような声やった。
「……私 、できなかったの。子供 欲 しかったんやけどね。でも……できなかったの。病院いって、調べてもらったけど、原因 はわからないの。私 にも、浩一 さんにも、問題ないって、お医者様はおっしゃるのに。ただ、なんでか……できないの。どうしてか……わからないの」
アキちゃんたぶん、言うたらあかんことを、小夜子 さんに言うたんやないか。
言いながら、小夜子 さんは、じわっと泣いた。
最初の一滴 の涙 がこぼれるまでは、すごく時間がかかった割 に、一度堰 を切ると、小夜子 姫 はぼろぼろ泣いた。
アキちゃんはそれを見て、痛 いという、痛恨 の顔をした。
後悔 してるっぽかった。
遅 いから。後悔 しても、もう言うてもうてるから。
アキちゃんほんまに、しょうがない。
新開 師匠 は、ぱっと見には何の王子様性 もない髭面 で、それでもやんわり優 しいような、騎士 (ナイト)っぽい仕草 で、小夜子 姫 を抱 き寄 せて、しくしく泣いてる嫁 を、自分の肩 に寄 りかからせていた。
「アホちゃうかお前、本間 ……」
恨 んでますけど、しゃあない奴 やというような、怒ってはいない声で、新開 師匠 はアキちゃんを咎 めた。
「すみません」
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