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26-68 トオル
「死なせとうなかったんやろ。それだけやで。水煙 もお前の使いでには、気がついてへんかった。あいつは、斬 った貼 ったの戦いには精通 しているけども、近代戦 には疎 い。もはや剣 や太刀 の時代やないんや。鉄砲 やミサイルの時代ですらないわな。情報戦 の時代や。金融 の、金 の時代や、朧 。時代は変わった。お前や、俺 の、時代やなあ」
くすくす笑うて、茂 ちゃんは、皮肉 に言うてた。
「金持ってるやつが、偉 いんや。今のご時世 。血筋 や官位 は関係あらへん。アキちゃん見たら、びっくりするやろ。俺 はもう、アキちゃんより金持ちなったし、お前ももう、今や神のようや。綺麗 やなあ、朧 。アキちゃんきっと、後悔 してるやろ。お前を捨 てていったことを」
「そうやろか」
ぽつりと返事する、怜司 兄さんの声は、否定的 やった。
ゆっくりと荒 い息に、心が乱 れたような、大きな胸 の動きが、なにかの発作 の直前 のような、不吉 さやった。
「後悔 なんて……してへんのとちゃうか。してたら、戻 ってきたって、一報 くらい、あってもええやん。格好悪 うて、できひんのか。そんなこと。それとももう、憶 えてへんのかな、俺 のことなんか」
「どないして忘 れられるんや、お前みたいな神のことを」
大崎 茂 は目利 きやった。
美術 品や骨董 の愛好家 で、ただ好きというだけやない。
集めてる。蒐集癖 が、あるんやって。
売ってるものなら、金に糸目 はつけへんし、売ってないようなもんでも、札束 で横面 張 り飛 ばして買い取っていく。
そんな、えげつない爺 さんや。
好きなんやろう。美しいモンが。欲 しいてたまらんのやろう。
それは誰 しもに多少なりとある欲 や。
まして爺 さん、それを手に入れられるだけの財力 や権力 を持ってんのやから、我慢 なんかするはずもない。
欲 しいなあて、書画 や骨董 を見るような目で、大崎 茂 は時々俺 のことを見る。
式(しき)なんて、覡 である大崎 先生にとっては、そんなコレクションのひとつなんかもしれへんな。
怜司 兄さんのことも、先生は、欲 しいらしかった。
欲 しいなあて、そんな目をして見てた。
でもそれは、俺 を見る時とは違 う。幼馴染 みのアキちゃんが持ってる、すごい玩具 を俺 も欲 しい。
同じ玩具 で遊んでみたい。そんな、えげつない欲 のように見えた。
せやけど、これは俺 の勘 やけど、怜司 兄さんはヘタレの茂 と寝 てやったことはない。これはたぶん間違 いない。
藤堂 さんの話やないけど、いまだかつて一度も食うたことがない美味 いモンを、食いたいなあて見るときの、垂涎 の光が、大崎 先生の目にはある。
アキちゃんが食うてる、美味 いらしい龍 を、俺 も食いたい。
そんな貪欲 で、子供 みたいな、ようわからん欲 が、大崎 茂 にはあるらしいんや。
そりゃあ、朧 様への執着 ではない。
秋津 暁彦 への執念 や。
大崎 先生は、アキちゃんのおとんと同じようでいたかったんやろ。
それと並 び立 てる、同等 の覡 でいたかった。
なんでって、たぶんやけどな。ふたりは兄弟やったんや。
大崎 茂 が弟で、暁彦 様は兄ちゃんやった。
茂 ちゃんは世の中の、ありきたりの弟みたいに、兄貴 のやることは、全部自分もやってみたかった。
兄貴 の持ってるモンは、全部自分も欲 しかったんや。
突 き詰 めれば、好きやったんやろな。アキちゃんのおとんの事が。
血のつながらへん兄弟で、一つ屋根の下で暮 らした友達 で、いつもドツキ合ってた、ライバルやったんや。
そやのにアキちゃん、死んでもうた。
大崎 茂 は、それが許 せへんかったんやろう。
「どうするつもりや、朧 。この坊 死んだら、どうするつもりなんや。またアキちゃんのところへ、戻 るのか」
もう、酔 うてるようには見えへん顔色で、大崎 茂 は朧 に訊 ねた。
怜司 兄さんは、もくもく煙 をくゆらせていた。
その向こう側から見ている、しかめられた伏 し目 の視線 は、どこも見てへんかったけど、鋭 かった。
「茂 ちゃん。縁起 でもないこと、言わんといてくれへんか。この坊 は、ちゃんと戻 ってくるわ。俺 のご主人様やで。滅多 なこと言うたら、茂 ちゃんでも許 さへんからな」
不愉快 そうな厳 しい声で言う朧 の顔を、大崎 茂 はじいっと見つめた。
それから、いかにも面白 そうに言うた。
「そうか。それは、アキちゃん、妬 くやろな」
こころもち、仰 け反 ったように喉 を見せ、くくくと笑う大崎 茂 の歯列 には、狐 みたいな小さい犬歯 があった。
もしや尻尾 もあるんではと思えるような気配 が、大崎 先生の全身から匂 った。
秋尾 はにこにこ、その傍 らに侍 り、空になっていた水のグラスに、黒漆 の水差 しからついでやっていた。
「美味 い水やなあ、秋尾 」
「はい先生。伏見 の白菊水 ですわ。今朝方 、あちらから取 り寄 せまして」
「そうか、気が利 くなあ、お前は。せやけど、そんな気が回るんやったら、なんでついでに伏見 の酒も、持ってこさせへんかったんや?」
「はあ、酒ですか」
それはしまったという顔で、秋尾 は驚 いていた。
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