643 / 928
26-69 トオル
「さっきお蔦 ちゃんと飲んだけど、このホテルが用意してたのな、灘 の酒やったわ。気が利 かんホテルやで。酒というたら伏見 やろ。『神聖 』がええなあ。アキちゃんが好きやった……坊 は、いくつや。酒飲める歳 か?」
唐突 に話をこっちに振 ってきて、大崎 茂 はアキちゃんに訊 いた。
アキちゃんはびっくりしたように、頷 いていた。
「飲めます」
「ほな、一献 、酌 み交 わそうか。これが最初で最後に、ならんとええけどな」
ふん、と忌々 しそうに鼻で笑って、大崎 茂 は狐 に命じ、半紙 と筆を出させた。
それは、矢立(やたて)という、パイプみたいな形した、昔々の筆入れや。
金属 製 の墨壺 と、筆を入れておく筒 がセットになっていて、携帯 用の書道セットやな。
しかし、狐 が差し出したそれは、どうも絵を描 くための筆で、墨壺 の飾 りとして、鋳物 の鳥居 と狐 が乗っかっていた。
ようできた、古い品のようやった。
大崎 茂 はその筆で、半紙 の上にさらさらと描 いた。
上手 な絵やった。
陶器 でできた酒瓶 と、そこから注ぐための、白い釉薬 をかけたぐい飲みが二つ。
酒瓶 の上には、えらい達筆 の字で、『神聖 』と酒の銘柄 が、描 き込 まれた。
せやけど、これ、絵に描 いた餅 ならぬ、絵に描 いた酒や。
これをどないして、酌 み交 わそうというのか。
肝心 なのは、こっからや。
大崎 先生の持っている、特殊 能力 。
茂 ちゃんは、自分が描 いた絵の上を、人差し指で撫 でるようにして、何かを探 す手つきをした。
そして、突然 、生 け簀 の魚でもとっつかまえるみたいに、えいっと素早 く、紙の中に手を突 っ込 んでいた。
破 いたんやない。絵の中に、手が入ってる。
俺 もアキちゃんも、びっくりしてもうて、ただ、あんぐりとして、大崎 茂 の手の先が、墨 で描 かれた絵のようになって、紙の中にあるのを、じっと見下ろした。
爺 がそのまま、絵の中の酒瓶 を引っつかんで手を引き抜 くと、果 たして伏見 の銘酒 『神聖 』は、その姿 をこちら側の位相 へと顕 した。
ぷうんと甘 い、日本酒独特 の、いい匂 いを漂 わせながら。
ぽいぽいと、二個 のぐい飲みも取り出され、半紙 はまた元の、真っ白い紙に戻 っていた。
狐 はその手際 をにこにこ眺 めているばかりで、怜司 兄さんも、やっぱり驚 かへん。
これは大崎 茂 にとっては、大して骨 の折れることではないらしい。
しかし、どえらい奇跡 や。
まさか世の中に、絵に描 いた餅 を食える奴 が居 るなんて、俺 は知らんかった。
「飲んでみい、坊 。末期(まつご)の酒や」
ぐい飲みに酒を注ぎ、大崎 茂 は意地悪 く、アキちゃんにそう勧 めた。
「これ……見た目は酒でも、実は墨 ってことは、ないですよね?」
アキちゃんは酒の匂 いを嗅 ぎながら、用心深 く確 かめていた。
「んなわけあるかい。儂 の神通力 は、狐 や狸 の妖術 とは違 うんやで。ほんまもんの酒や! 味わって飲め」
そう怒鳴 る、大崎 茂 のほうをじっと見たまま、アキちゃんはちびちびと飲んだ。
ものすご警戒 した飲み方やった。
俺 は横でそれを、じっと眺 めた。
「絵の中の食いモンて、絵から出せたからって、普通 に食うてええもんなんですか?」
もう飲んでもうた、ぐい飲みの酒を、飲んでもうたと見下ろして、アキちゃんは大崎 茂 に訊 いた。
爺 さん、可笑 しそうに含 み笑 いしながら、自分も酒を飲んでいた。
「そら、通力 しだいや。下手 がやったら、紙みたいな味がするかもしれへんで」
「大崎 先生も絵を描 く人やとは、知りませんでした」
その絵がけっこう上手 かったもんやから、アキちゃん急におとなしなってた。
露骨 な子や。絵の上手 いやつのことは、素直 に尊敬 できるらしい。
大崎 茂 の絵は、一言で言うと、粋 な絵やった。
アキちゃんが描 くような、細密 な絵とは違 うけど、大ざっぱやのに味がある、枯 れた筆跡 が格好 ええような、肩肘 張 らん、ざっくりした絵や。
「儂 は描 かへん。とっくの昔にやめてもうたわ」
「でも上手 いやないですか?」
「そうやろか。お前のおとんに勝たれへんもんやから、嫌 んなって、やめてもうたわ。一人 で描 いてもおもろないしな。絵描 きになりとうて描 いてた訳 やないんや。お前のおとんと、張 り合 うてただけやねん」
そういう割 には、大崎 茂 は才能 あった。
そいつは天与 のもんやろう。
苦労して得 たもんやないから、有 り難 みが薄 かったんか、それとも大崎 先生は、アキちゃんのおとんが出征 したまま戻 らんかったことに、よっぽどガックリ来てもうたんか、絵を描 くことを放棄 していた。
人が描 いたのは見るし、高い金払 うて買 うてやるけども、自分はろくろく描 かんようになっていて、たまにこうして落書 き程度 。それで惜 しいことないんやって。
ともだちにシェアしよう!