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26-69 トオル

「さっきお(つた)ちゃんと飲んだけど、このホテルが用意してたのな、(なだ)の酒やったわ。気が()かんホテルやで。酒というたら伏見(ふしみ)やろ。『神聖(しんせい)』がええなあ。アキちゃんが好きやった……(ぼん)は、いくつや。酒飲める(とし)か?」  唐突(とうとつ)に話をこっちに()ってきて、大崎(おおさき)(しげる)はアキちゃんに()いた。  アキちゃんはびっくりしたように、(うなず)いていた。 「飲めます」 「ほな、一献(いっこん)()()わそうか。これが最初で最後に、ならんとええけどな」  ふん、と忌々(いまいま)しそうに鼻で笑って、大崎(おおさき)(しげる)(きつね)に命じ、半紙(はんし)と筆を出させた。  それは、矢立(やたて)という、パイプみたいな形した、昔々の筆入れや。  金属(きんぞく)(せい)墨壺(すみつぼ)と、筆を入れておく(つつ)がセットになっていて、携帯(けいたい)用の書道セットやな。  しかし、(きつね)が差し出したそれは、どうも絵を()くための筆で、墨壺(すみつぼ)(かざ)りとして、鋳物(いもの)鳥居(とりい)(きつね)が乗っかっていた。  ようできた、古い品のようやった。  大崎(おおさき)(しげる)はその筆で、半紙(はんし)の上にさらさらと()いた。  上手(じょうず)な絵やった。  陶器(とうき)でできた酒瓶(さかびん)と、そこから注ぐための、白い釉薬(ゆうやく)をかけたぐい飲みが二つ。  酒瓶(さかびん)の上には、えらい達筆(たっぴつ)の字で、『神聖(しんせい)』と酒の銘柄(めいがら)が、()()まれた。  せやけど、これ、絵に()いた(もち)ならぬ、絵に()いた酒や。  これをどないして、()()わそうというのか。  肝心(かんじん)なのは、こっからや。  大崎(おおさき)先生の持っている、特殊(とくしゅ)能力(のうりょく)。  (しげる)ちゃんは、自分が()いた絵の上を、人差し指で()でるようにして、何かを(さが)す手つきをした。  そして、突然(とつぜん)()()の魚でもとっつかまえるみたいに、えいっと素早(すばや)く、紙の中に手を()()んでいた。  (やぶ)いたんやない。絵の中に、手が入ってる。  (おれ)もアキちゃんも、びっくりしてもうて、ただ、あんぐりとして、大崎(おおさき)(しげる)の手の先が、(すみ)(えが)かれた絵のようになって、紙の中にあるのを、じっと見下ろした。  (じじい)がそのまま、絵の中の酒瓶(さかびん)を引っつかんで手を引き()くと、()たして伏見(ふしみ)銘酒(めいしゅ)神聖(しんせい)』は、その姿(すがた)をこちら側の位相(いそう)へと(あらわ)した。  ぷうんと(あま)い、日本酒独特(どくとく)の、いい(にお)いを(ただよ)わせながら。  ぽいぽいと、二()のぐい飲みも取り出され、半紙(はんし)はまた元の、真っ白い紙に(もど)っていた。  (きつね)はその手際(てぎわ)をにこにこ(なが)めているばかりで、怜司(れいじ)兄さんも、やっぱり(おどろ)かへん。  これは大崎(おおさき)(しげる)にとっては、大して(ほね)の折れることではないらしい。  しかし、どえらい奇跡(きせき)や。  まさか世の中に、絵に()いた(もち)を食える(やつ)()るなんて、(おれ)は知らんかった。 「飲んでみい、(ぼん)。末期(まつご)の酒や」  ぐい飲みに酒を注ぎ、大崎(おおさき)(しげる)意地悪(いじわる)く、アキちゃんにそう(すす)めた。 「これ……見た目は酒でも、実は(すみ)ってことは、ないですよね?」  アキちゃんは酒の(にお)いを()ぎながら、用心深(ようじんぶか)(たし)かめていた。 「んなわけあるかい。(わし)神通力(じんつうりき)は、(きつね)(たぬき)妖術(ようじゅつ)とは(ちが)うんやで。ほんまもんの酒や! 味わって飲め」  そう怒鳴(どな)る、大崎(おおさき)(しげる)のほうをじっと見たまま、アキちゃんはちびちびと飲んだ。  ものすご警戒(けいかい)した飲み方やった。  (おれ)は横でそれを、じっと(なが)めた。 「絵の中の食いモンて、絵から出せたからって、普通(ふつう)に食うてええもんなんですか?」  もう飲んでもうた、ぐい飲みの酒を、飲んでもうたと見下ろして、アキちゃんは大崎(おおさき)(しげる)()いた。  (じい)さん、可笑(おか)しそうに(ふく)(わら)いしながら、自分も酒を飲んでいた。 「そら、通力(つうりき)しだいや。下手(へた)がやったら、紙みたいな味がするかもしれへんで」 「大崎(おおさき)先生も絵を()く人やとは、知りませんでした」  その絵がけっこう上手(うま)かったもんやから、アキちゃん急におとなしなってた。  露骨(ろこつ)な子や。絵の上手(うま)いやつのことは、素直(すなお)尊敬(そんけい)できるらしい。  大崎(おおさき)(しげる)の絵は、一言で言うと、(いき)な絵やった。  アキちゃんが()くような、細密(さいみつ)な絵とは(ちが)うけど、大ざっぱやのに味がある、()れた筆跡(ひっせき)格好(かっこ)ええような、肩肘(かたひじ)()らん、ざっくりした絵や。 「(わし)()かへん。とっくの昔にやめてもうたわ」 「でも上手(うま)いやないですか?」 「そうやろか。お前のおとんに勝たれへんもんやから、(いや)んなって、やめてもうたわ。一人(ひとり)()いてもおもろないしな。絵描(えか)きになりとうて()いてた(わけ)やないんや。お前のおとんと、()()うてただけやねん」  そういう(わり)には、大崎(おおさき)(しげる)才能(さいのう)あった。  そいつは天与(てんよ)のもんやろう。  苦労して()たもんやないから、()(がた)みが(うす)かったんか、それとも大崎(おおさき)先生は、アキちゃんのおとんが出征(しゅっせい)したまま(もど)らんかったことに、よっぽどガックリ来てもうたんか、絵を()くことを放棄(ほうき)していた。  人が()いたのは見るし、高い金(はろ)うて()うてやるけども、自分はろくろく()かんようになっていて、たまにこうして落書(らくが)程度(ていど)。それで()しいことないんやって。

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