659 / 928

26-85 トオル

 驚(おどろ)くようなことばっかりやな、藤堂(とうどう)さん。  はよ慣(な)れなあかん。今後も嫁(よめ)の遥(よう)ちゃんと、仲良うやっていくつもりなんやったら。  こいつも異界(いかい)に片足(かたあし)を突(つ)っ込(こ)んでいる、非(ひ)・一般的(いっぱんてき)な奴(やつ)なんやしな。 「祇園(ぎおん)小唄(こうた)、舞(ま)わしてもらいます。朧(おぼろ)ちゃん、お囃子(はやし)(はやし)、よろしゅうお頼(たの)み申(もう)します」  ほんまもんの女としか思えへんような、可愛(かわい)らしい鈴(すず)振(ふ)る声で、秋尾(あきお)はそう言い、ご主人様の大崎(おおさき)茂(しげる)に、一番よう見えるような立ち位置で、長い長い振(ふ)り袖(そで)を胸元(むなもと)にかき合わせ、甘(あま)いシナを作って座(すわ)る、舞(ま)い始(はじ)めのポーズで音楽を舞(ま)っていた。  そりゃあもう、完璧(かんぺき)なまでに、ほんまもんの舞妓(まいこ)さんやった。  今、目の前で秋尾(あきお)が化けたのを見ていても、これが本物やのうて狐(きつね)が化けてる奴(やつ)やなんて、飲(の)み込(こ)みにくい。  秋尾(あきお)の変化(へんげ)は大したもんや。  和(あ)えかなお香(こう)がほのかに香(かお)る、綺麗(きれい)な袖(そで)の陰(かげ)で、うっとり目をとろめかす、その仕草(しぐさ)も可愛(かわい)いけりゃ、小さく紅(べに)をさしている、白塗(しろぬ)りの顔も可愛(かわい)い。  それがちょっと、アキちゃんのおかんの登与(とよ)姫(ひめ)に、よう似(に)ているような気がしてな、俺は複雑(ふくざつ)やった。  大崎(おおさき)茂(しげる)は子供(こども)みたいに、大好きな登与(とよ)ちゃんそっくりな狐(きつね)の舞妓(まいこ)が、踊(おど)りを踊(おど)ってくれているので、満足しているようやけども、秋尾(あきお)はどうやろ。嫌(いや)なんちゃうか。  我慢(がまん)している。諦(あきら)めている。そういう心境(しんきょう)なんやないかと、俺は空想(くうそう)した。  お前が好きやて、大崎(おおさき)茂(しげる)はこの狐(きつね)に、ちゃんと言うてやってんのやろか。  それとも、そんなことは関係なくて、ただ単(たん)にご主人様と、その式(しき)で、お前は俺に仕(つか)えてナンボやろって、そんな横柄(おうへい)さで押(お)し切(き)られてんのかな。  もしもそうでも、秋尾(あきお)は平気なんやろか。  平気でにこにこ、踊(おど)ってやるし、伏見(ふしみ)の酒の酌(しゃく)かて、とってやる。  それで満足、先生死ぬなら、てめえも殉死(じゅんし)という覚悟(かくご)でやな、必死のご奉公(ほうこう)。  そんなん、不公平(ふこうへい)やないか。  俺には到底(とうてい)、そんなことはできへん。  それをやれと、アキちゃんに望(のぞ)まれても無理や。  俺も嫌(いや)やねん。我(わ)が儘(まま)言いたい。  遥(よう)ちゃんみたいに。それが俺の当然の権利(けんり)として。  俺のもんやでアキちゃんは。誰(だれ)にもやらへんて、駄々(だだ)こねたい。  だってそれが、当然やんか。アキちゃんは俺のツレなんやから。  それがあかんて言うんやろうか。秋津(あきつ)のやつらは。  水煙(すいえん)や、秋尾(あきお)みたいなのが、ええ式神(しきがみ)で、そうでない相手は、ご当主(とうしゅ)様にはふさわしくないんか。  俺や、怜司(れいじ)兄さんみたいなのは、あかんてことか。  俺を愛して。  神事(しんじ)なんて。お家(いえ)の務(つと)めなんて。そんなもん捨(す)てて、俺と逃(に)げてくれって、そういう邪(よこしま)な奴(やつ)では、あかんのか。  上機嫌(じょうきげん)なふうに、綺麗(きれい)な声で歌うとうてる怜司(れいじ)兄さんを、俺は見るともなく、じっと見つめた。  おとんはこの人を、なんで捨(す)てたんやろう。  アキちゃんも俺を、捨(す)てたやろうか。  神事(しんじ)なんかやめて、俺と逃(に)げようって、必死で誘(さそ)ったら、俺より血筋(ちすじ)の務(つと)めとやらを、選んだんやろうか。アキちゃんは。  おとんがそうやったように、俺を捨(す)てて、水煙(すいえん)を選んだか。  それともアキちゃん、逃(に)げてくれたかな。  俺と一緒(いっしょ)に。どこか遠い、地の果(は)てまで。  それを想像(そうぞう)すると、俺は切(せつ)ない。  その気持ちが分かるのか、俺がぎゅうぎゅう抱(いだ)いていた黒ダスキンのポチも、悲しそうに、低くキュウキュウ鳴(な)いていた。  寂(さび)しいよう、アキちゃんて、こっそり手を握(にぎ)りにいくと、アキちゃんはふと俺を見たけど、うっすらとにっこりしただけで、そのまま俺の手を包(つつ)むように、握(にぎ)り返してくれた。  冷たい手やなあ亨(とおる)って、暖(あたた)めてくれてるような指やった。  なんか変やけど、それだけのことで、俺は満たされた。  寂(さび)しいのんが、ちょっとずつ癒(い)えて、アキちゃん好きやで、胸(むね)があったかくなってくる。  これがないと、俺はもう、生きていかれへんやろう。  寂(さび)しいて堪(たま)らんで、凍(こご)えて死んでしまうやろう。  俺にはアキちゃんがいて、よかったな。  そう思いつつ、俺は少々気まずく、そして気恥(きは)ずかしく、優雅(ゆうが)に舞(ま)っている秋尾(あきお)を眺(なが)め、美声(びせい)で歌う怜司(れいじ)兄さんの声を聴(き)いていた。  それはこんな歌やった。  昔、昭和の初めの頃(ころ)に、白黒映画(えいが)の主題歌(しゅだいか)やったとかで、えらい流行(はや)って、祇園(ぎおん)のお座敷(ざしき)でも繰(く)り返(かえ)し歌われ、舞(ま)われてきた、お座敷(ざしき)遊びの定番曲やで。  聴(き)いたら皆(みな)も知ってるかもしれへん。  知らんでも、聴(き)けば、これこそまさに祇園(ぎおん)の風情(ふぜい)やなあって、思えるような曲や。  月はおぼろに東山(ひがしやま) 霞(かす)む夜毎(よごと)のかがり火に  夢(ゆめ)もいざよう紅(べに)桜(さくら) しのぶ思いを振袖(ふりそで)に  祇園(ぎおん)恋(こい)しや だらりの帯(おび)よ 作詞(さくし):長田幹彦(ながたみきひこ)、作曲:佐々紅華(さっさこうか)、昭和5年  それは祇園(ぎおん)の四季(しき)を詠(うた)った歌で、せやし四番まである。  春から始まって、夏、秋、冬と続く。  祇園(ぎおん)に時たま遊びに来る男を待っている恋(こい)のことを、詠(うた)った歌やで。  あるいはそうして自分を待ってる誰(だれ)かのことを、想(おも)って詠(うた)う歌かもしれへん。

ともだちにシェアしよう!