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26-86 トオル

 祇園(ぎおん)(こい)しや、か、と、俺はぼんやり思った。  アキちゃんのおとんはなんでこの曲が、好きやったんやろう。  ただ(たん)に、流行(はや)っていたからか。  ただ(たん)に、祇園(ぎおん)のお座敷(ざしき)遊びで、遊びほうけて()くときに、ちょうどええような、それっぽい曲やったからか。  それとも、その歌を(うと)うてくれる、怜司(れいじ)兄さんの(つや)っぽい声が、好きやったんか。  さすがというか、怜司(れいじ)兄さんの歌は良かった。ただ上手(うま)いだけやのうて、心にしみいるような歌声やった。  この人、歌だけでも食うていける。それ一つとっても神になれる。  それでも怜司(れいじ)兄さんは、それを武器(ぶき)にはせえへんらしいで。  ただ好きな、気に入って()た相手のために、歌うてやるだけで、(だれ)でも(かれ)でも()るくせに、(だれ)にでもは歌ってやらへんらしい。  好きなやつにしか()かせへんのやな。  それは(だれ)とでも()怜司(れいじ)兄さんの、不思議な(つつし)みやった。愛せる(やつ)にしか、歌は(うと)うてやらへんねん。  その声が、祇園(ぎおん)小唄(こうた)の最後の歌に、()()かっていた。その歌は、京都の寒い冬のことを、歌っていた。  雪はしとしと まる(まど)に つもる()うせの さしむかい  火影(ほかげ)つめたく 小夜(さよ)ふけて もやい(まくら)に 川千鳥(かわちどり)  祇園(ぎおん)(こい)しや だらりの(おび)作詞(さくし)長田幹彦(ながたみきひこ)、作曲:佐々紅華(さっさこうか)、昭和5年 「アキちゃん……あのな……」  歌を邪魔(じゃま)せんように、俺は(となり)にいるアキちゃんの耳に、耳打(みみう)ちをした。  というのは、ただの口実(こうじつ)で、俺はアキちゃんにキスしたかってん。  耳に(くちびる)()()てて(ささや)くと、アキちゃんはくすぐったそうにしたけど、()げへんかった。  それがアキちゃんも、俺とキスしたいからやって思うのは、俺の自惚(うぬぼ)れなんやろか。 「あの人、アキちゃんのおとんと、より(もど)したら、あかんの? アキちゃんは、(いや)か」  俺が(たず)ねると、アキちゃんは複雑(ふくざつ)そうな目をした。  そら、複雑(ふくざつ)やろな。  だって、アキちゃんのおとんは、アキちゃんのおかんのツレなんやしな、自分の親が浮気(うわき)すんのを、別にええよと思う子が、おるわけないわ。  しかも(おぼろ)はアキちゃんの式(しき)やんか。  今やあいつは俺のもんやで、アキちゃんは怜司(れいじ)兄さんにも、執着(しゅうちゃく)してる。それが分からんほど、俺もアホではないんやで。  いろんな意味で、ハードル高いな。  怜司(れいじ)兄さんが暁彦(あきひこ)様と、またくっつくのは。  独占(どくせん)(よく)(かたまり)みたいなジュニアやら、(こわ)(こわ)秋津(あきつ)のおかんと戦う羽目(はめ)になんのか。  せやけど、この人を幸せにするには、それしかないんとちゃうの。  俺がアキちゃんと(はな)れては幸せになられへんように、怜司(れいじ)兄さんもそう。好きな相手と一緒(いっしょ)でないと、(さび)しいんや。  別に、恋人(こいびと)としてでなくても、ええんとちゃうの。  それが一番、ベストのコースやろけどな、でも俺、もしアキちゃんに()られても、アキちゃんの(そば)にはいたい。  そんなん、格好悪(かっこうわる)未練(みれん)たらたらやろうけどさ、でも、アキちゃんの顔が見えるところに、いつもいたい。  (さび)しいねん。ちょっと口きくだけでもええねん。それが無理でも、アキちゃんのこと、見てたいねん。  好きやっていう目で見られると、(こま)るていうなら、それも我慢(がまん)する。ただ見てたいねん、アキちゃんのこと。  そういう気持ちは、俺には分かる。そんな目には()いたくないけどな。でも分かる。  それもあかんの。  ええやん、それくらい。  ただちょっと()うて、お前も元気でよかったなみたいな、そんな話くらい、してやればええやん、おとん。  なんで会いに()えへんのやろ、あのオッサン。冷たいやんか。  もともとそういう(おに)みたいな男やったんやろか。  アキちゃんと同じ顔してんのに、アキちゃんとは、(たし)かに全然ちゃうな。  アキちゃんみたいに、(やさ)しくない。  なんで怜司(れいじ)兄さんは、そんな薄情(はくじょう)な男が好きなんやろう。  祇園(ぎおん)の冬を歌う歌には、もちろん映像(えいぞう)はついてない。ただの歌。  それでも俺には、何かが見えてるような気がした。  寒い部屋(へや)の、あったかい布団(ふとん)の中で、ひとつ(まくら)(ねむ)っている、俺の知ってる、それでも、俺の知らないような、アキちゃんのおとんと、まだ幸せだった(ころ)の、(おぼろ)様がな。  それは俺の妄想(もうそう)やろか。  それとも、俺が怜司(れいじ)兄さんの心を読めたんやろか。  わからへん。ほんまのところは。  せやけど歌には魔法(まほう)があるやろ。心を伝える力が。  くどくど語ってきかせるよりずっと、気持ちを伝えられる魔法(まほう)が、歌にはあるやんか。  そんな魔法(まほう)は、俺だけやのうて、(にぶ)いジュニアにも、有効(ゆうこう)やったみたいやで。 「俺が(いや)とか、いいとかいう次元(じげん)の話やないやろ」  俺の手をにぎにぎしたまま、アキちゃんはなんでか、しょんぼり言うてきた。  なんやねんな、しょんぼり言うな、俺のツレ。普通(ふつう)に言え。 「なんとかしたらなあかんやろなぁ……」  それが他人事(たにんごと)ではなく、自分には責任(せきにん)があるように、アキちゃんはぼやいていた。

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