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26-90 トオル
おとんの雅号 は暁雨 っていうんやで。
そんなペンネームまで持ってんのやから、アキちゃんのおとんかて、そこそこ本格的 にお絵描 きしていたんやろう。
そやのに、秋津 の家には一枚 も、おとん画 の軸 やら何やらが、飾 ってあるわけでなし。おかんも一個 も見せてくれへんかった。
お兄 ちゃんの絵は秘密 の大事なお宝 として、秋津 家の蔵 に仕舞 ってあるんや。
おかんはそれを、息子 のアキちゃんにさえ、いっぺんも見せてくれてないらしい。
「アキちゃんの絵が、門外 に出てたとはなあ、ウチも知りませんでした」
蔦子 さんは頷 きながら、その件 を思い出したようやった。
せっかく藤堂 さんが気をきかせて、ソファの席をあけたものの、そこに座 ったのは蔦子 さんと竜太郎 だけで、狩衣 の式 たちは、いかにも主 に隷属 する下僕 らしく、地べたに座 った。
寛太 はその一員なんやから、当然かもしれへんけども、なんでかその脇 にいる信太 まで、同じように床 に座 った。
そして戻 るのが遅 かったんをアキちゃんに詫 びるように、無言で深々 と頭をさげてた。
アキちゃんはそれが、ものすご居心地 悪いという顔やった。
どうしたらええかわからんもんで、思わず自分も深々 と、お辞儀 して答えたけども、それには信太 が、苦笑 していた。
たぶん、知らん顔しとけばよかったんやろう。
信太 は下僕 の虎 で、アキちゃんはそのご主人様なんやから。
そんな板につかない主従 の様子を、蔦子 さんは微笑 ましそうな淡 い笑 みで、ちらりと流し見たものの、何もコメントせえへんかった。
せやけど信太 を惜 しむようではなかった。
正しいところへ収 まったものを見て、満足するような、そんな余裕 の顔つきやったで。
「俺も知らんかったんやけどな、アキちゃんの絵はいくつか秘密裏 に、売買 されてたようやねん。今でもどこかにあるはずや」
「危 ない絵やし出したらあかんて、叔母様 たちが、きつう説教 して、蔵 に仕舞 ってはったはずやけど……どないして外へ出たんどすやろ」
まるで絵の軸 に手足が生えて、蔵 から脱走 でもしたみたいに言い、蔦子 さんは首をひねっていた。
「外へ出たわけやのうて、外で描 かはったんやないですやろか」
秋尾 は言うてええのか、蚊 の鳴くような声で、ご注進 していた。
「外で? なんでアキちゃんが外で絵描 くんや。そんなんしたらあかんのやで」
「そうですけど……、でも、本家 には結界 があって、絵を外には持ち出されへんかったんやし、その絵を市井 で売買 しようと思たら、外で描 くしかありません」
ぼそぼそと、訳 知ったふうに言うてる狐 の話を、難 しい顔して聞きながら、大崎 茂 はしばらくして、さらにむっと、眉 をひそめた。
「朧 。アキちゃんまさかお前んとこで、絵描 いたりしてへんかったやろうなあ?」
「してへん。なんで?」
けろっと悪びれへんふうに、怜司 兄さんがDJブースから答えると、俺 の隣 でアキちゃんが、なぜかビクッとした。
それを俺 と蔦子 さんは、横目でじろっと、咎 めるように見た。
「あいつが外で絵描 けるとこなんて、お前んとこぐらいやないか」
大崎 茂 はまるで、それがものすごあかん事のように言うていた。
怜司 兄さんはそれに、肩 をすくめていた。
「そうやろか。絵なんか、どこでも描 けるやん。道ばたで描 いてるやつかておるで」
「秋津 本家 の暁彦 様が、道ばたで絵なんぞ描 くわけあらへん。貧乏 絵描 きやあるまいし」
むっとしたように反論 している大崎 茂 に、俺はちょっと驚 いた。
その言い様 は、まるでアキちゃんのおとんが、地べたに座 ったら死ぬみたいな、途方 もないボンボン扱 いで、どこの殿様 か天子様 か、下々 の者 とは全然違 う、異世界 の生き物みたいに聞こえた。
茂 ちゃん、水煙 のこと、お前がアキちゃんを追いつめたって罵 ってやがりましたけど、そういう自分も実はその一党 やったんとちゃうの。
ほんまは自分も殿様 みたいなアキ兄に、ときめいていた一人 やったんやないの。
それがまるで対等 な、ありきたりの兄 ちゃんみたいに、てめえと遊んでくれてることに、うきうきしていた小僧 やったんとちゃうの。
ちょうど今、竜太郎 が、おかんを挟 んでとはいえ、大好きなアキ兄のそばに同席しているだけで、ドキドキしてるっぽい、薄赤 いほっぺたしてるみたいにさ。
「……まあええわ。もう過 ぎたことやしな。せやけど、アキちゃんの絵は危 ないんやで。お前もそれはわかっとったんやろ。好き勝手に描 かせたらあかんのやで」
「そうやろか。絵なんか好き勝手に描 くからええんとちゃうの。暁彦 様ぼやいとったで。俺 の絵に、茂 が勝手に墨 入れるって」
けろっと言うてる、怜司 兄さんの話しぶりには、何や知らん、毒 があった。
大崎 先生はそれを言われ、ぎくっとしたように、硬 い表情 になっていた。
狐 は気の毒そうな流し目で、首をすくめてそれを眺 め、あたかも主人の失態 を盗 み見 するような様子やった。
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