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26-91 トオル

 大崎(おおさき)(しげる)は、ばれてへんと思っていたらしい。  (しげる)ちゃんな、アキちゃんのおとんの絵に、こっそり加筆(かひつ)していたらしい。  それは絵を殺すためや。絵の中の何かが、勝手に()()()んように、(きず)を付けていた。  その一筆(いっぴつ)で、生きていた絵が死んで、一段(いちだん)落ちた、まるで生きているみたいな絵へと、無難(ぶなん)に変わるように。  それは別に、アキちゃんのおとんの絵に嫉妬(しっと)して、(こわ)したろうと思ってやったことやない。  (しげる)ちゃんは、本家のオバチャマたちの手先(てさき)やったんや。可哀想(かわいそう)にな。  そりゃまあ、しゃあない。怜司(れいじ)兄さんに言わせればやで。(しげる)ちゃんは本家の(やしな)()、弱い立場やねんから。  ババアどもが、暁彦(あきひこ)様のお(とも)しろて命じれば、嫌々(いやいや)でもついていく。  夜明かし飲んだくれる祇園(ぎおん)のお座敷(ざしき)へでも、決死で(おに)()修羅場(しゅらば)にでもや。  暁彦(あきひこ)様も、(しげる)やったらまあええかと、妥協(だきょう)したからや。  ヘタレの(しげる)は弟みたいなもん。  たとえババアの手先でも、それさえちょっと(わす)れといてやれば、まあまあ可愛(かわい)いもんやった。暁彦(あきひこ)様にとってはな。  ついてくるのが鬱陶(うっとう)しいて、邪魔(じゃま)やと思えば、がっつり酒飲まして()いてまえばよかったんやし、(しげる)もそれは、よう分かってる。大人(おとな)しく()いつぶれていた。  お前は遠慮(えんりょ)せえと、アキ(にい)が思うてる時には、いつもよりピッチの速い(しゃく)を、(こば)みはせえへんかった。  そんなお前が可愛(かわい)いと、暁彦(あきひこ)様はお思いやったらしいで。  (しげる)可愛(かわい)いやつやと、(おぼろ)様にはゲロってたらしい。まるで弟みたいやと。  ……あのなあ、それって、あれやん。(みな)はもう、知ってんのやろ。  秋津(あきつ)血筋(ちすじ)の悪い(くせ)やねん。  アキちゃんかてそうやん。  ()まわしくも(ただ)れきった近親(きんしん)相姦(そうかん)のお血筋(ちすじ)なんや。  弟でも妹でも、おかんでもおとんでも関係あらへん。なんでもありやねんから。  アキちゃんはワンワンのこと、弟みたいで可愛(かわい)いんやって。そこが犬のチャームポイントやねん。  弟みたい、て。普通(ふつう)はそれ、(おれ)はお前には気がないという意味の台詞(せりふ)やで。  それが秋津(あきつ)(みな)さんにとっては、真逆(まぎゃく)の意味や。  (しげる)可愛(かわい)いなあ、まるで弟みたいやと、暁彦(あきひこ)様は(こま)ってたらしい。  血は(つな)がってへんのに、餓鬼(がき)(ころ)から同じ家に住んでるもんやから、まるで血筋(ちすじ)の子みたいに思えちゃうんやろ。  そういう意味やで。つまり。  暁彦(あきひこ)様はヘタレの(しげる)食指(しょくし)が動いたんや。  せやけど手はつけへんかった。その理由もまた、弟みたいやったからやろう。  実の妹とデキてもうてる、あの非常識(ひじょうしき)舅殿(しゅうとどの)にも、常識(じょうしき)一応(いちおう)あったんや。  (こう)不幸(ふこう)か。それがヘタレの(しげる)にとって、ええことやったかどうかは、別としてな。 「気がついてへんのかと思うてたわ。なんも言わんのやもん」  絵に一筆(いっぴつ)入れていたことについて、(しげる)ちゃんはバレてへんつもりやった。  普通(ふつう)やったら(ゆる)せへん、そのことを、暁彦(あきひこ)様が見逃(みのが)していたせいや。  (しげる)やったらしゃあないかと、(ゆる)してた。気がついてないふりをして。 「気がつかへん(わけ)ないやんか、(しげる)ちゃん。自分の絵に(だれ)かが一筆(いっぴつ)入れててやで、わからん絵描(えか)きがどこにおる」  ()やむような苦笑(にがわら)いで、(おぼろ)様は暴露(ばくろ)していた。  ヘタレの(しげる)がこの七十年以上も、バレてへんと信じていたことを。 「(おこ)ってたんか、アキちゃん」  今さらそれに青ざめてきたんか、大崎(おおさき)(しげる)()いが()めたような顔つきやった。 「(おこ)ってへんけど。でもイラッとはするやろ。そんなんされたら、(だれ)かて(うれ)しくはないわ。せやから(かく)れて外で()かれんのやんか」 「この世に(おれ)が見たことないアキちゃんの絵があるやなんて……」  どこか呆然(ぼうぜん)としたふうに、大崎(おおさき)(しげる)(つぶや)いていた。  それに(おぼろ)様は、なにが可笑(おか)しかったんか、椅子(いす)(もだ)え、あっはっはと(のど)をそらして笑っていた。 「そんなん、いっぱいあるで(しげる)ちゃん。山ほどある。別にええやん……それくらい。何が不満なんや。餓鬼(がき)のころから、ひとつ屋根の下、どこへ行くにも腰巾着(こしぎんちゃく)で、正味(しょうみ)、十七、八年も、べったり(あま)えたんやろ。それがなんで出征(しゅっせい)の時まで大喧嘩(おおげんか)やねん。しんどいで、暁彦(あきひこ)様も。ああもう、ほんまにかなわん、(しげる)子守(こも)りはしんどいわ……」  (だれ)かの口調を真似(まね)るような口振(くちっぷ)りで、(おぼろ)はぼやいた。  何やしらん、邪悪(じゃあく)な冷たさやった。  それに大崎(おおさき)(しげる)はむっとして、蔦子(つたこ)さんは、むむっという顔をした。 「怜司(れいじ)」  きりっと(きび)しい、ご主人様の声色(こわいろ)で、蔦子(つたこ)さんは怜司(れいじ)兄さんを(しか)った。  それには兄さん、おとなしく首を()れていた。蔦子(つたこ)さんには(さか)らわんらしかった。  ため息一つで、蔦子(つたこ)さんは怜司(れいじ)兄さんを(ゆる)した。 「いろいろありますなあ、(ぼん)秋津(あきつ)の家にはなあ。その当主(とうしゅ)(つと)めるというのは、大変なことどすわ」  しみじみ同情(どうじょう)したふうに、蔦子(つたこ)さんはアキちゃんに言うた。  まるで他人事(たにいごと)みたいやった。

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