666 / 928

26-92 トオル

 実際(じっさい)それは他人事(たにんごと)かもしれへん。蔦子(つたこ)さんには。  分家(ぶんけ)の当主(とうしゅ)とはいえ、結婚(けっこん)して力を合わせ、家を支(ささ)えていくはずのアキちゃんのおとんは、許嫁(いいなずけ)のまま死んでもうて、蔦子(つたこ)さんはすでに他家(たけ)の嫁(よめ)なんや。  普通(ふつう)やったら知らん顔して、うちはもうヨソもんどすって、ドライにしとってもええはずやった。  これは秋津(あきつ)家の問題で、海道(かいどう)蔦子(つたこ)の仕事ではない。  ただアキちゃんのおかんに、息子(むすこ)をよろしゅうと頼(たの)まれたっていうだけで。  よろしゅうもなにも、そのおかんは、どこで何をやっとんのや。  髭(ひげ)の師匠(ししょう)やないけども、こんな難儀(なんぎ)な時に、可愛(かわい)いひとり息子(むすこ)をほったらかして、ラブラブ世界一周旅行なんか、やってる場合やないよ。  さっさと旦那(だんな)を連れて戻(もど)って来んかい。  ほんまに一体、なにをやっとんのや。アキちゃんの両親は。  一体、なにを。  遊んでるんやって、思うてた?  ブラジルでラブラブ?  七十年ぶりのハネムーンが嬉(うれ)しすぎて、息子(むすこ)のことなんか完璧(かんぺき)忘(わす)れてもうてた?  鯰(なまず)が出てきて、さあ大変てなってるとは、これっぽっちも気付いてへんかと、思うてた?  ……そんなわけない。なめたらあかん。  秋津(あきつ)の直系(ちょっけい)や。  アキちゃんを別にすれば、この世で最も血の濃(こ)い、秋津(あきつ)家の正統(せいとう)な世継(よつ)ぎの兄と、その実の妹なんやで。  おとん大明神(だいみょうじん)と登与(とよ)姫(ひめ)は、遊びにいってたわけやないんや。  そのことは、この後、すぐに分かった。俺らの誰(だれ)もが思ってもみないような事を、おとんとおかんはやってた。  神戸(こうべ)から、ちょうど地球の真裏(まうら)にあたる、南米(なんべい)で。  南米(なんべい)か……懐(なつ)かしいな。  亨(とおる)ちゃん、南米(なんべい)の蛇(へび)やったことある。  もう昔すぎて、ようわからへん。  ヤハウェにやられて、命からがら落(お)ち延(の)びて、この極東(きょくとう)の島へたどりつく前のことは、忘(わす)れてもうたり、もう忘(わす)れたいと思うたりで、よう思い出されへん。  せやけど完全には、忘(わす)れ去(さ)られへんものや。  かつて我(わ)が身(み)を生み出し、神と崇(あが)めてくれた民(たみ)のことは。信太(しんた)がかつて中国の、黄砂(こうさ)の大地で世話(せわ)んなった民人(たみびと)のことを、今でも忘(わす)れてへんように、俺かて忘(わす)れてへん。  この体のどこかでは、今でも深く憶(おぼ)えている。  俺のことをエアと呼(よ)んだ。  あるいはケツァルコアトルと。ククルカンと崇(あが)めた、もうどんな顔やったかも思い出されへん、無数の人々のことを。  今ではもう遠く、冥界(めいかい)へと去った、その愛(いと)おしい魂(たましい)のことを。 「水地(みずち)亨(とおる)」  突然(とつぜん)背後(はいご)から呼(よ)ばれて、俺はびっくりした。  びくっと来るような声やった。  それが水煙(すいえん)の声やったからや。  俺には怖(こわ)いねん、こいつは。いろんな意味でな。  戻(もど)ってけえへんと約束(やくそく)してたくせに、水煙(すいえん)は戻(もど)ってきた。犬に車椅子(くるまいす)押(お)させて。なんや、難(むずか)しい顔をして。  俺はびっくりした顔で、ソファの背(せ)もたれにとりついて、車座(くるまざ)の外にいる、青い宇宙人(うちゅうじん)と向き合っていた。 「なんやねん水煙(すいえん)、約束(やくそく)違(ちが)うやないか。なんで戻(もど)ってきたんや」 「そういうお前こそ、何をしてるんや。ジュニアとふたりきりで別れを惜(お)しむんやなかったんか。なんでこんなとこに居(お)るねん」  真顔(まがお)でつっこまれた。確(たし)かにそうやった。  アキちゃんとふたりっきりでラブラブする予定やったのに、なんでか全員いてますみたいなこの席で、なにひとつラブっぽいことはできず仕舞(じま)いで、ただ座(すわ)ってるだけ。平安コスで。  虚(むな)しい。時間がもったいない。  俺とアキちゃんのラブラブな時間が、どんどん無駄(むだ)に流れていっている。  ヘタレの茂(しげる)の話なんか聞いてる場合やないのに。狐(きつね)の踊(おど)りなんか見てる場合ちゃうのに。  怜司(れいじ)兄さんの歌なんかいつでも聴(き)けるのに。なにをやってんのや俺は。 「なんでやろうな……」  若干(じゃっかん)かすれ声で、俺は水煙(すいえん)様に尋(たず)ねた。  水煙(すいえん)はほとほと呆(あき)れたという顔やったような気がする。  表情(ひょうじょう)ないから、わからへんねんけど、このときちゃんと人並(ひとな)みの顔やったら、そういう表情(ひょうじょう)してたに違(ちが)いないという確信(かくしん)がある。 「まあええわ。お前がアキちゃんといちゃいちゃしたないんやったら、俺も別に遠慮(えんりょ)せえへん」  いや、遠慮(えんりょ)して。遠慮(えんりょ)してくれていいのに水煙(すいえん)。  いちゃいちゃしたいんですけど。状況(じょうきょう)がそれを許(ゆる)さへんだけやねん。なんとかして。 「アキちゃん、なんも変わったことはないか」  水煙(すいえん)は何かそわそわしたような顔で、まじめにそう訊(たず)ねてきた。  変わったことなら、いっぱいあったけど。そういう意味じゃないのよね?  アキちゃんは目を泳がせ、一度、助けを求めるように俺の顔を見たけど、結局自分で返事していた。 「なにもないと思うけど?」 「そうか? 俺は何か、胸騒(むなさわ)ぎがするねん。虫の知らせか……」  虫なんかおるん、水煙(すいえん)?  気色悪(きしょくわる)。虫おるんやって。  虫湧(わ)いてますよ、この青い人。気色悪(きしょくわる)。  ちなみに水地亨(とおる)は虫なんかいません。クリーンです。クリーンな亨(とおる)ちゃんです。  それでもまだ水煙(すいえん)のほうが清純(せいじゅん)派(は)やというんですか。  虫おるんですよ。俺のほうが清純(せいじゅん)です。 「先代からなにか、知らせはなかったか」

ともだちにシェアしよう!