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26-106 トオル
それに畏 れ入 った訳 でもあるまいに、おとんは微妙 に煮 えきらん返事やった。
そうやと、蔦子 さんは念押 しはせえへんかった。
ただ何か、おとんがまだ喋 ると知ってるような気配 で、じっと次の話を待っているように見えた。
予知者 やからかな。蔦子 さんは知ってたんか。おとんが何て言うか。
それともただ、カマかけたんやろうか。おとんの心を試 す罠 を仕掛 けて。
「お蔦 ちゃん。その式(しき)は誰 や」
迷 ったふうな黙 りの後、おとんは結局 訊 いた。
蔦子 さんはすぐには答えへんかった。
焦 らすような沈黙 の間、蔦子 さんは大崎 茂 と静かな目配 せを交 わした。
「誰 でもええやおへんか。うちが選んだ式(しき)では不足なんどすか」
「……いや、不足はない。誰 であろうが酷 いのは同じことや。ただ……」
ただ、何やねん、おとん。
俺やったらかまへんけど、誰 やったらあかんねん。
ほんまむかつく。
でも、怒 らんから言うてみ。皆 、それを待ってんねんから。
蔦子 さんは怜司 兄さんを見つめ、怜司 兄さんはテーブルの上の、ちっさい紙人形を見てた。
秋津 暁彦 と書いてある、その紙切れを。
たぶんやけど、怜司 兄さんが見てたんは、紙に書かれた文字の筆跡 やろう。
おとんが放 った文 やねんから、そこに書いてあった名前も、おとんが自分で書いたんや。
懐 かしい字や、怜司 兄さんにとっては。
七十年ぶりに見る、暁彦 様の肉筆 やで。
「あんたの息子 は、怜司 を生 け贄 にやるつもりやったんどす。そのつもりで、怜司 を自分の式(しき)にしたんや。手癖 の悪い子ぉどすわ。うちに何の相談もせず、勝手にそないなことして……」
いきなり暴露 されてる。
アキちゃん、くうってなってた。
まさか蔦子 さんがバラすと思うてへんかったみたい。
チクられとるわ。ざまあみろ。
おとん人形、なんも言わんかったけど、ガーンみたいなリアクションやった。
だって、のけぞってたもん。むっちゃショックやったんやで。
本人は無表情 なつもりやったんかもしれへんけど、如実 に気持ちが出てたから。お人形さんのほうにはな。
むしろ本人おらんで良かったぐらいやで。アキちゃん並 のポーカーフェイスやったら、わからへんもん、何を思ってんのかなんてさ。
「せやけど、それはうちが許 しませんでした。この神事 には、先 から縁 のある式(しき)が、うちの手元におりまして。それが自分が行くと志願 したんどす。拾 いもんどすけど、由緒 のある神や。鯰 もお気 に召 すやろ」
「そうか……」
心なしか、ぐったり相槌 を返すおとんの声は、明らかにホッとしていた。
おとんは蔦子 さんが、怜司 兄さんを鯰 の生 け贄 に決めたんかと思うたんやろ。
アキちゃんに譲渡 した式(しき)というのが、怜司 兄さんに違 いないと。
それでかまへんというほどには、おとんも非情 ではないらしい。
俺もそれには、正直ホッとした。なにか明るい道が、どこかにあるような気がして。
「アキちゃん……他 にも話さなあかんことが、ぎょうさんあるんどす。早 う帰ってきておくれやす。あんた、いつ戻 るつもりなんや」
一人前 の男になった弟を、頼 る姉の口振 りで、蔦子 さんは話した。
そこには何や独特 の、親密 さがあった。
「明日 には戻 る。お蔦 ちゃん。こちらの月の出を待って」
「月どすか」
「そうや。大きな術法 を使うには、月読(つくよみ)の加護 があったほうがいい。お登与 を抱 いて太平洋を越 えなあかん。あいつは生身 やからな、無茶 はしとうないんや」
「そうどすな……気をつけて、お戻 りやす」
かすかに目礼 をして、蔦子 さんは話を閉 じた。
おとんはもう行くみたいやった。もう切れる電話の、その直前の気配 がしていた。
アキちゃんは急に、焦 ったみたいやった。
おとんにまだ何か言うことはないかと、焦 ったんやろか。
もう切るでって言われて、また急におとんが恋 しくなったんか。
そうやない。アキちゃんもそこまでは餓鬼 やない。
餓鬼 やけど、そこまでではない。生憎 な。
去ろうとする、おとんの霊 を引 き留 めるために、アキちゃんは堰 を切ったような早口で話しかけていた。
「おとん! 朧 に何か言うことないんか!」
そう訊 いた、その台詞 がアキちゃんの、今回いちばんの失言 やったな。後になって思えばな。
皆 がさ、そう言いたいのを何とはなしに我慢 する空気やったのにさ、なんで言うてもうたんやろな。
情緒 がない。言わんかったらよかった。
そしたらおとんかて返事せんでもよかったのにさ。
触 れへんほうがええことってあるよ。特に親子間 ではさ。
「何かって、何を言うんや、暁彦 」
「何をって……なんでもええけど、何か……」
何も思いつかんらしい、空気読めへんアキちゃんは言うた。
「何もないよ」
おとんはちょっと、苦笑 したような声で、あわあわしている息子 に答えた。
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