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26-107 トオル
「お前もな……水煙 だけでは足らんのか。それもしゃあない、血筋 の定 めや。お前もつくづく、俺の子やなぁ。俺はもう、なんも言うことないわ。大事にしてやってくれ」
しみじみと、おとんは言うて、それっきりやった。
紙でできてた人形は、ただの紙切れに戻 り、はらりとコーヒーテーブルに伏 した。そしてもう、なんにも言わへんかった。
やってもうた。アキちゃん、やってもうた。
おとんに身を引かせてもうた。
実は脈 あったかもしれへんのに、お前にやるわって、明言 させちゃった。
「おとん、そうやないねん……そうやのうて……もうちょっと待ってくれてもええやん」
アキちゃん、自分のまずさに、参 ったみたいやった。がっくり項垂 れて、もう聞いてへんのがわかりきってる相手に、ぶつぶつ言うてた。
それを見下ろす怜司 兄さん、呆然 としてた。
怖 いのに見ちゃった。なんで見ちゃうんやろう俺は。
怖 いもん見たさか。ついつい見ちゃうんや。
そん時の怜司 兄さんの顔、さっき見た寛太 の顔と、そっくりやった。
なんかこう。魂 抜 けてるみたいなな。
悲しいっつか、もう、そのへん通過 して、ぽかーん、みたいな……。
えっと。あの。亨 ちゃん、なんか言うたほうがええかな。
ここはツレとして、アキちゃんのイケてなさを、さりげなくフォローとかすべきかな?
でも何を言うねん。
あれえ電話切れちゃったね、またかかってくるんちゃうの。おとん明日 帰ってくるって。楽しみやね! お土産 なにかなぁ~? みたいな?
その軽いノリに入る糸口 がまったく掴 めません。
いくら俺でも無理でした。なんか空気重すぎて。
「先生」
ぽかんとしたままの声で、怜司 兄さんがやっと喋 った。
アキちゃんは、それと合わせる顔がないんか、がっくり項垂 れたまま、うんとかすんとか言うた。言葉にならんような返事やった。
「俺、なんで自分が今まで死なずに居 れたんか、やっと分かったわ」
ぼんやり言いながら、怜司 兄さんは、イテテ、みたいな顔をして、自分の胸 に手をやった。
ボタン開けてるシャツの、お美しい胸 の、まぶしいような懐 に手を差し入れてから抜 き取 ったその手を、怜司 兄さんは不思議 そうに見ていた。
「生きてたら、まだ……まだ何か、希望があるかと」
そう言うて、怜司 兄さんは、ものすごく、しょんぼりとした。
そして苦しそうに、服の上から自分の胸 を掴 み締 めていた。
人間やったらちょうど、心臓 のあるあたりを。
左胸 の。そう。さっき透 けて見えてた骸骨 が、後生大事 に抱 えてた、赤く脈打 つ血の珠 が仕舞 ってあったあたりやで。
小さく呻 いた怜司 兄さんの長い指の間から、突然 だらだらと、赤黒い血が流れ出てきて、俺は思わず、ぎゃっと喚 いた。
血が出てる。血が出てるう!!
そんなオタオタしてる俺の気配 に、アキちゃんさすがに、項垂 れてられんようになったんか、自分も顔を上げてそれを見て、やっぱりぎょっとなっていた。
たぶん皆 、青ざめていた。
蔦子 さんが慌 てたふうに立ち上がる、裳裾 を引く衣擦 れの音がした。
それでも怜司 兄さんが頼 ったんは、蔦子 さんでも、もちろんアキちゃんでもなかったんやで。
「信太 ……胸 痛 い」
ちょっと甘 えたように言う、か細 い声やった。
怜司 兄さん、いつもとは別人みたいやった。
こう言うたらなんやけど、完璧 に腑抜 けてた。
若干 アホみたいやった。ショックすぎて、頭イっちゃってるっぽかった。
そうやなあ。なんつうか。寛太 っぽい。
寛太 が怜司 兄さんをパクってるという話は、ほんまやったんやなあって、俺もつくづく納得 しました。
信太 が好きやったんは、この怜司 兄さんやったんや。
でも、こう言うたら悪いかもしれへんけども。怜司 兄さん、普通 やないと思う。ほんまにどっかイカレてると思う。
正気やない。そんな感じの顔やったもん。
たぶん怜司 兄さんの心は、ほんまにどっか壊 れてんのやで。
それは原爆 にどつかれたせいやないやろ。
それがトドメやったんかもしれへんけど、その前からもう、おかしかったんやで。
アキちゃんのおとんに、駆 け落 ちドタキャンされた時から、もう変やったんや。
絶対 そうに決まってる。
そして全然ちっとも、治ってなんかない。
治るわけない。だってアキちゃんのおとんは、この人んとこに、ちっとも戻 って来 えへんのやもん。
信太 にしとけばよかったんちゃうん。怜司 兄さん。
だって信太 、優 しいで。この時も、優 しかったわ。
皆 、ビビってたけど、信太 は慣 れてた。
内心焦 ってたかもしれへんけど、でも、こういうのは、これが最初やなかったんやろ。
怜司 兄さんが変になるのは、信太 にとっては初めてのことやなかったんや。
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