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26-108 トオル

 信太(しんた)は何でもないように立ち上がり、(すわ)(ほか)の連中をよけて、()()ってる怜司(れいじ)兄さんの(そば)まで行った。  そして、いつも寛太(かんた)にしてやってるみたいに、(いた)そうな顔してる怜司(れいじ)兄さんの頭を、自分の(かた)()()せていた。  寛太(かんた)はぼうっとしたまま、それを見ていた。  こいつも今ちょっと、おかしいみたいやった。 「怜司(れいじ)、血、出とうで。お前の大事なもんなんやろ。ちゃんと仕舞(しま)っとかなあかんやんか」  ()()せた怜司(れいじ)兄さんの耳に、信太(しんた)は言い聞かせるように(ささや)いていた。 「信太(しんた)。俺、()られてもうたわ。暁彦(あきひこ)様に、()てられた」  信太(しんた)肩口(かたぐち)におとなしく顔を()めて、怜司(れいじ)兄さんは言うてた。()もったふうな、悲痛(ひつう)な声やった。 「そんなことない。お前の(かんが)()ぎや」  (かみ)(みだ)れんのもかまわず、信太(しんた)怜司(れいじ)兄さんの頭を、よしよししてやっていた。いつも寛太(かんた)にしてやってるみたいに。  怜司(れいじ)兄さんもそれに、文句(もんく)は言わんかった。  ただ信太(しんた)(ささや)く声を、聞いているだけやった。  (むね)()さえている怜司(れいじ)兄さんの指を(おお)って、信太(しんた)は流れ落ちる血を止めようとしてるみたいやった。  たぶんそれが怜司(れいじ)兄さんの命綱(いのちづな)やからや。  その血を失ったら、消えてまうんやないか、(おぼろ)様は。  この人にはもう、その愛のほかに、この世に()るための理由はないんや。 「さっき、明日(あした)には(もど)るて言うてはったやんか。聞こえてたやろ。明日(あした)になったら会えるんやで。会いたかったんやろ、暁彦(あきひこ)様に」  ()んで(ふく)めるように、信太(しんた)は話した。  怜司(れいじ)兄さんはぼんやり(うつ)ろな目で、それを聞いてた。 「会いたかった」  あっけないほど素直(すなお)に、怜司(れいじ)兄さんはそう答えてた。  いつもなら絶対(ぜったい)可愛(かわい)げあることなんか言わんくせに。  信太(しんた)の口元がそれに、苦笑(くしょう)すんのが見えた。 「ほな良かったやん。なんも(こま)ったことないで。酒飲んで(けむり)()って歌うたお。そんなんしてたら、すぐ明日(あした)になるで。良かったなあ怜司(れいじ)。そうや夜来香(イェライシャン)歌ってよ。暁彦(あきひこ)様が好きやったんやろ」  元気出せよと信太(しんた)(うなが)すと、怜司(れいじ)兄さんはぼけっとしたまま、こくこくと小さく(うなず)いていた。  そして何も深くは考えてへんような目で、じっと間近に信太(しんた)を見つめた。 「信太(しんた)今日(きょう)いっしょに()てくれ。気持ち良うしたるから、一(ばん)いっしょにいて」 「俺を口説(くど)かんといて。今夜は()られへんのやで。徹夜(てつや)宴会(えんかい)なんやもん。(わす)れたか? (わす)れたらあかんで、お前の仕事なんやろ?」  (にが)(ばし)った()みで、信太(しんた)(こば)んだ。  せやけどこれが、神事(しんじ)(ひか)えた潔斎(けっさい)の日ではなく、(だれ)もおらん二人(ふたり)きりの部屋(へや)やったら、信太(しんた)はそれを(こば)めたやろか。 「そうやったわあ……歌うたうねん」  ぼんやり答える(おぼろ)に、信太(しんた)はうんうんて、(うなず)いてやっていた。 「これ、もらっとけ。お守り代わりに」  よいしょ、と身を(かが)めて、信太(しんた)はコーヒーテーブルの上にあった、人型の紙切れをとった。  それには秋津(あきつ)暁彦(あきひこ)と書いてあった。  ついさっきまで、おとんの声で(しゃべ)っていた紙や。  それを手渡(てわた)信太(しんた)から、受け取った怜司(れいじ)兄さんの指は、血まみれやった。  それでも、にっこりとして、怜司(れいじ)兄さんはほんまに(うれ)しそうに笑って言った。 「暁彦(あきひこ)様の字やわ」 「そうか。字の上手(じょうず)な人やな。これ(むね)に入れとけ。もう(いた)くならんようにな」  信太(しんた)(うなが)されて、紙切れを(ふところ)仕舞(しま)うと、怜司(れいじ)兄さんはうっとりとした。綺麗(きれい)微笑(ほほえみ)やった。  それで満足してもうたんか、怜司(れいじ)兄さんは()しのけるようにして、信太(しんた)(むね)から(のが)れた。 「俺、歌うたお……」  楽しそうに言うて、怜司(れいじ)兄さんはふらふらと、元の席へと()()んでいった。  ぞんざいに()しやられても、信太(しんた)は全然、気を悪くしてへんみたいやった。  うんうん、て、にっこり(うなず)いてやって、それからぺたんて、へたるみたいに、俺とアキちゃんが()()ったまま硬直(こうちょく)してた横へ来て(すわ)り、はあ、と深いため息をついた。 「びびるわ、毎回。怜司(れいじ)のあれには」  小声でぼやくみたいに、信太(しんた)愚痴(ぐち)った。  俺らはそれを引き続き硬直(こうちょく)して聞いていた。 「でも可愛(かわい)いですよね。あっちが正気(しょうき)のほうやったらええのにな。そう思いません?」  自嘲(じちょう)したふうに笑い、信太(しんた)はアキちゃんに()いてるらしかった。  せやのにアキちゃん、いろいろ気まずすぎて、うんともすんとも言われへんようになっていた。  くっ、と(こま)った息を()らしただけで、何も言わずじまい。

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