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26-114 トオル
すぐ返すからと、怜司 兄さんは俺に頼 んだ。
そうして、アキちゃんの腕 を強く握 りしめてる怜司 兄さんの手が、いつもに増 して白く、骨 のような色で、獲物 を掴 む怖 い鳥か、鬼 か、何かそういうもんの手のように見えてもうて、俺はまた、まだ綺麗 なままの怜司 兄さんの顔に、慌 てて目を戻 した。
「お願いやで亨 ちゃん。俺はもう、暁彦 様が斬 らなあかんような、鬼 にはなりたくないねん」
青ざめた怜司 兄さんの額 に、一滴 の汗 が浮 いていた。
それを見て、そして俺は最後にアキちゃんと、一時見つめ合った。
アキちゃんは俺に何か言いたいような、済 まなさそうな、頼 み込 むような、縋 り付 くような、その全部であり、どれでもないような目をしていた。
ただそうやって俺を見るだけで、アキちゃんはなんも言わんかったけど、俺にはなんでか、アキちゃんの気持ちがわかった。
自分がいま、どうしたらええのかも。
「しゃあないなあ。歌おか。実は俺も歌には自信があるねん。何か聴 きたい曲ないの?」
笑って俺が訊 ねると、怜司 兄さんは、済 まんなあというふうに、淡 い苦しげな笑 みを返した。そして、乾 いた唇 で、こう言うた。
「Hymne à l'amour 」
それを聞いて、俺は思わず、えへっと笑った。恥 ずかしかってん。
なんでそんな歌、俺が皆 の見てる前で歌ってやらなあかんの。
恥 ずかしいやん、やめて、怜司 兄さん。
でも聴 きたいんやったら、しゃあないなあ。歌おか。
それは古いシャンソンの名曲で、たぶん皆 も知ってるわ。
日本語にも翻訳 されてるし、日本でも流行歌になった。
『愛の讃歌 』というタイトルで。
エディット・ピアフという、フランス人のシャンソン歌手が、熱愛 していた恋人 の、不慮 の飛行機事故死の後に歌って、猛烈 に流行 った曲や。
原曲 は、こんな歌やった。
この世が滅 びようとも、あなたが私 を愛してくれたら、それでかまわない。
あなたがそうしろと言うなら、月でも盗 む。
祖国 も裏切 る。友さえ捨 てる。何だってする。
もしも、あなたが死んだら、私 も後を追う。
愛してる、愛してるって、いかにもシャンソンらしい、情熱的 で暗い、激 しい愛の歌や。
日本語版 もええな。でもアキちゃんの前やと、なんや恥 ずかしすぎて無理で、しゃあないから俺は、フランス語で歌った。
それやったらアキちゃんには、意味わからんのやもん。
せやけど、意味わからんでは、皆 も、はあ? て思うやろから、一応 言うけど。教えるけど、日本語の歌詞 も。何がどう恥 ずかしいんか、俺に訊 かんといて。一回しか言わへんしな。一回だけやで。よう聞いといて。
俺は、がっつり張 り付 いていたアキちゃんの背 を離 れ、さっきまで怜司 兄さんが座 っていた、DJブースの革張 りの椅子 んとこへ行った。そこから見返すと、アキちゃんが俺のほうを、じっと見ているのが見えた。
アキちゃんがお仕着 せの、おとん譲 りの黒い直衣 の袖 で、押 し隠 すようにして、怜司 兄さんを自分の胸 に抱 き寄 せているのを。
それは、ちょい前の俺やったら、見た瞬間 に、キレるか泣くか、あるいは死んでまうかするような、ショッキングな光景やったかもしれへん。
でも何でかな。平気やった。
全然平気と言うと嘘 かもしれへんのやけども、俺を見ているアキちゃんが、なんや複雑 そうな目をしてるのを眺 め、ちょっと笑えた。
しょうがない。うちのツレは巫覡 の王で、鬼退治 が仕事やねん。
退治 というても、斬 った貼 っただけが能 やない。
鬼 さん宥 めて、神さんに変える、そんなミラクルな大技 のほうが、性 に合うてる。優 しい子やねん。
せやし、しょうがないよなあ。俺はときどき、目をつぶろ。
知らん顔してよ。アキちゃんが俺を一番に愛してる限 り、怖 いモンは何もないって、そういう、でかい態度 で余裕 ぶちかましてよ。
だって、しょうがない。それが今、俺がアキちゃんのためにしてやれる、一番ええことやないか。
水煙 がいつか、言うてたやん。
そこらの男に惚 れたんやない。こいつは秋津 の頭領 で、三都 の巫覡 の王やねん。
それと連 れ添 うつもりなら、それ相応 の覚悟 が要 るわ。
残念ながら、俺もとうとう、水煙 みたいになってきたなあ。
苦笑 しながら俺は、いっぱいある機材の中の液晶 画面を覗 き、さっぱり意味わからへんと思って、途方 にくれた。
「怜司 兄さん、これ、どないして音出すの?」
困 って俺が聞くと、アキちゃんに抱 かれた袖 の合間 から、ひょいと白い手があらわれて、ぱちんと指を鳴らした。
そしたら、どこからともなく盛大 な拍手 の音が鳴り、そして聞き覚えのある曲のイントロが、雰囲気 たっぷりの伴奏 で流れ始めた。
俺は笑えた。不思議やなあ、よう出来てるなあと思って。
それにこの歌歌うの、久 しぶりやなあと思って。
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