689 / 928
26-115 トオル
昔、ちょっとフランスに住んでみたことがあって、そこでは亨 ちゃん、酒場 の歌歌 いやってん。
どうってことない店やったけど、小さい、クルミの木でできたステージがあって、赤いビロードのカーテンが、薄暗 い照明の部屋 の中に、かけられていた。
気まぐれに俺が、そこで歌うと、皆 酔 い痴 れて、俺の歌が聞きたくて、しだいに客が増 えた。
あんまりまともな奴 が来るような店とは言えへんかったんやけども、毎週、金曜にだけ現 れる、いかにも真面目 そうなおっさんがいて、その目が他 の誰 よりも熱く、俺を見ているような気がして、もしかしてこれが、愛やないかと思ってん。
歌の文句 にあるような。永遠 に二人 で生きて、離 ればなれにならない。俺がずっと探 している、同じ魂 の片割 れではないかと。
俺って惚 れっぽいねん。誰 にでもすぐそう思う。
もう探 し疲 れてもうててな、お前でええわ、俺を幸せにしてくれって、縋 り付 きたい気分やってん。
そのおっさんも、けっこうすぐに食うてもうたよ。ばりばり食うてもうた。ほんまに食うてもうてん。
その人にも、藤堂 さんみたいに、奥 さんと娘 が居 って、家族は捨 てられへんと言うていた。
そうか、それはしょうがないと、俺も諦 めてはいた。
そのつもりやったというかさ。
でもな、ある金曜日、おっさんは俺んとこに来て、仕事で遠くへ行くんだ、もう会えないんだ。さようならだと言った。
さよならと、俺も言うたつもりやったんやけど。気がつくと、楽屋 が血まみれ。
おっさん片腕 しか残ってへんかった。
俺がやったんやと思う。よう憶 えてないんやけどさ。
その人の好きやった歌も、Hymne à l'amour やったわ。
せやし、よう歌った、その人のために。
そして、その時から今まで、いっぺんも歌ったことない。
思い出してまうやん。自分がただの怪物 で、人を食って生きてる悪魔 。
そんな奴 が、いったい誰 と幸せになれんの。
そんな都合のいい相手はいない。俺が探 してる魂 の片割 れなんてのは、どこにもおらん。
俺は永遠 に、ひとりで世界を彷徨 っている鬼 で、未来永劫 ひとりぼっちなんやって、そう思えてくる。
アキちゃんも、もしかすると、そうかもしれへん。ただ俺が思いこみたいだけで、ほんまは運命の相手なんかやのうて、ただ行きずりの、なんでもない男やったのかもしれへん。
俺のせいで、ひどいめに遭 わされた、過去 に出会った偽物 の、魂 の片割 れたちと同じでな。
だけどもう、俺も終わりにしたいねん。
アキちゃんが俺の旅の終着点 。俺はアキちゃんのとこで、幸せになるねん。
めでたし、めでたし。そういうオチにして、二人 でずっと幸せに、生きていけるんやったら、俺はなんでも我慢 するよ。何でもする。
ほんまにね、お月さんだって、盗 んできてやるよ。
それでアキちゃんと俺が、幸せになれんのやったらね。
せやしアキちゃん、俺と生きてよ。俺はお前と生きてやるから。
お前も俺のこと、もっと本気で愛してよ。
たとえ空が裂 けて、俺らの頭上 にふりかかろうとも、大地 が崩 れて、俺らを呑 み込 もうとしても、そんなん関係あらへん。
アキちゃんが俺を愛してくれてさえいれば、俺は幸せ。
どんな真 っ暗闇 の中にいても。
そう思って歌うと、久々 ながら、俺様 の喉 は冴 えていた。
めちゃめちゃ良かった。自分で言うのもなんやけど。震 い付 くような美声 やった。
さすが神。水地 亨 は神ですね!
「上手 い……」
アキちゃんの腕 に抱 かれていた怜司 兄さんが、それをぐいっと押 しのけて、俺を褒 めてた。
「上手 すぎる、亨 ちゃん。感動 した!」
ありがとう。怜司 兄さん感動 しはったで。
「この曲、俺の持ち歌やったけど、今後は亨 ちゃんにやるわ。また歌ってね。なんならデビューする? えらいオッチャン紹介 しよか?」
「デビューせんでええねん。元気出たんか、怜司 兄さん」
俺が椅子 にふんぞりかえって訊 くと、怜司 兄さんはまだ青白い淡 い笑 みで、うんうんと頷 いていた。
「いつまでも、先生借 りとくわけにいかんから」
ぐちゃぐちゃなってた髪 を手櫛 で直しつつ、怜司 兄さんは恥 ずかしそうに返事していた。
「亨 ちゃんのやもんなあ、本間 先生は。愛しちゃってんのやもん。ごめんね、ちょっと借 りて」
すみませんて、恐縮 したみたいに、怜司 兄さんはアキちゃんをぐいぐい押 しのけていた。
アキちゃんカワイソ。別に無理矢理抱 いたわけやないのに、まるでセクハラしてたオヤジみたいやないか。
ともだちにシェアしよう!