691 / 928
26-117 トオル
俺は余 りにも気まずうて、またいつの間 にか俺に擦 り寄 ってきていた黒ダスキンのポチを捕 まえ、膝 の上で、ダスキン的 な触手 っぽい黒毛 を、ぎゅうぎゅう引 っ張 ってもうてた。
伸 びるで、この毛。びよんびよんするで。
なんやこれ変やわあ。癖 になりそう。
「嫌 やて言うてたくせに。アキちゃんのおとんと戦争いって、死なんでよかったわって、信太 には話してたやん」
「そら嫌 やで。嫌 やない奴 、居 るわけないやん。誰 かてそうやろ。自由気ままに生きていたいもんやろ。でも違 ったんやな。本音 はそうでも……あいつには、死んででもやらなあかん事が、あったんやろ」
にこにこ話してる怜司 兄さんは、疲 れてて、ちょっと寂 しそうやった。
「なんで俺はそれを、分かってやられへんかったんやろなあ。逃 げようなんて、誘 ったらあかんかったよな。亨 ちゃんみたいに、言うてやらなあかんかったんや。それが、いわゆるひとつの、真(まこと)の愛ってやつか?」
冗談 みたいに、怜司 兄さんは笑っていたけど、でもその言葉はやけに、ずしりと重かった。
長年のしかかる後悔 が、重たい石のように、降 り積 もっている。
「そんなことないよ。何が正しいかなんて、終わってみなわからんやないか。好きやったから、逃 げようって思 たんやろ。俺も思うわ。今でも思うわ。ほんま言うたら、今すぐでも逃 げたいわ。逃 げてええなら、アキちゃん攫 って、どこへでも逃 げる。地の果 てまでもな」
せやけど逃 げ場 なんかないやん。
アキちゃんは自分自身の自責 の念 からは、宇宙 の果 てまで飛んだかて、逃 れられへん。
立ち向かうしかないんや、自分の人生と。
そういう性格 なんや、あの男はな。
それを連れて逃 げて、幸せになれる場所が、この世のどこかにあるとは思えへん。
怜司 兄さんは、どこへ逃 げるつもりやったん。
そんなとこが、どこかにあるなら、教えてよ。
「逃 げるとこなんか、ないねん。亨 ちゃん。駆 け落 ちなんて、来るわけないって、ほんまはどっかで分かってたんやけど。それでも逃 がしてやりたかってん。生きて、好きな絵描 いて、そんな人生、生きてもええやんて、言うてやりたかったんや」
余計 なお世話 やったみたいやけどなと、怜司 兄さんは笑っていた。
俺はますます、すごく、暗い気分になった。
俺にもその選択肢 は、あったはずや。
アキちゃん逃 げようって誘 う、そういうコースも。
俺がそれを、とうとう最後まで口に出されへんかったんは、他でもない、あんたのせいやで、怜司 兄さん。
俺は、あんたみたいになるのが怖 くて、アキちゃんに、捨 てられんのが嫌 で、それを言い出す勇気がなかったんや。
大義 やし。お家 のためやし。血筋 の定 め。
三都 の巫覡 の王なんやし。男の子には面子 があるわ。
命をかけても守らなあかん、名誉 があるわて。
それは正しいことかもしれへん。正しいように聞こえる。
でも、ほんまは、皆 が間違 っていて、怜司 兄さんだけが正しいことを言うてたんやないの。
アキちゃんのおとんは、時代の波の、家の名誉 の、犠牲 になったんや。
ただ絵描 いてられれば幸せな、息子 のほうと大差 ない、絵描 きのボンボンやったのに、嫌 が応 にも英雄 になった。そういう道しかなかったんや。
こっちもあるで。一緒 に行こう。お前が死ぬなんて我慢 できへんて、言うてくれる相手がおって、おとんはほんまに迷惑 やったんか。
俺にはよう、わからへん。そうやとは、思いたくない。
逃 げようって誘 うのが、真(まこと)の愛かもしれへんで。
名誉 も大義 も振 り捨 てて、とにかくお前を守りたいって、言うてくれる誰 かのほうが。
難 しいなあ。愛は。
ほんま言うたら俺も、ようわからへんねん。
アキちゃん好きやより先の、小難 しいことは。
いろいろ考えてみても、結局 のところ、わからへん。
「俺なあ、亨 ちゃん。もとは四条 河原 の鬼 なんやで。人食うてたんや、ほんまに。そんなん、したくはなかったけどさ、でも、そうしいひんと、てめえが死ぬんや。しょうがないやろ」
そうやなあって、俺は黙 って頷 いていた。
「そんな俺のことを、暁彦 様は、お前は雀 やないかって。人に尽 くせば神になれるでって、言うてたわ」
その出来事 が今も、色あせへん総 天然色 で心の中にあるように、怜司 兄さんは話していた。
そうや。それが秋津 マジックや。俺かて身に覚えがあるわ。
お前は鬼 やないと、アキちゃんが言うてくれた時の、胸 のざわめきを。
怜司 兄さんもその手で、落とされてもうたん?
ワンパターンやな。
そう思えて、俺が苦笑 していると、怜司 兄さんも照 れたような、苦笑 いやったわ。
「でもな、亨 ちゃん。ほんま言うたら、神になれるかなんて、それもな、どうでもええねん……」
ともだちにシェアしよう!