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26-117 トオル

 俺は余(あま)りにも気まずうて、またいつの間(ま)にか俺に擦(す)り寄(よ)ってきていた黒ダスキンのポチを捕(つか)まえ、膝(ひざ)の上で、ダスキン的(てき)な触手(しょくしゅ)っぽい黒毛(くろげ)を、ぎゅうぎゅう引(ひ)っ張(ぱ)ってもうてた。  伸(の)びるで、この毛。びよんびよんするで。  なんやこれ変やわあ。癖(くせ)になりそう。 「嫌(いや)やて言うてたくせに。アキちゃんのおとんと戦争いって、死なんでよかったわって、信太(しんた)には話してたやん」 「そら嫌(いや)やで。嫌(いや)やない奴(やつ)、居(お)るわけないやん。誰(だれ)かてそうやろ。自由気ままに生きていたいもんやろ。でも違(ちが)ったんやな。本音(ほんね)はそうでも……あいつには、死んででもやらなあかん事が、あったんやろ」  にこにこ話してる怜司(れいじ)兄さんは、疲(つか)れてて、ちょっと寂(さび)しそうやった。 「なんで俺はそれを、分かってやられへんかったんやろなあ。逃(に)げようなんて、誘(さそ)ったらあかんかったよな。亨(とおる)ちゃんみたいに、言うてやらなあかんかったんや。それが、いわゆるひとつの、真(まこと)の愛ってやつか?」  冗談(じょうだん)みたいに、怜司(れいじ)兄さんは笑っていたけど、でもその言葉はやけに、ずしりと重かった。  長年のしかかる後悔(こうかい)が、重たい石のように、降(ふ)り積(つ)もっている。 「そんなことないよ。何が正しいかなんて、終わってみなわからんやないか。好きやったから、逃(に)げようって思(おも)たんやろ。俺も思うわ。今でも思うわ。ほんま言うたら、今すぐでも逃(に)げたいわ。逃(に)げてええなら、アキちゃん攫(さら)って、どこへでも逃(に)げる。地の果(は)てまでもな」  せやけど逃(に)げ場(ば)なんかないやん。  アキちゃんは自分自身の自責(じせき)の念(ねん)からは、宇宙(うちゅう)の果(は)てまで飛んだかて、逃(のが)れられへん。  立ち向かうしかないんや、自分の人生と。  そういう性格(せいかく)なんや、あの男はな。  それを連れて逃(に)げて、幸せになれる場所が、この世のどこかにあるとは思えへん。  怜司(れいじ)兄さんは、どこへ逃(に)げるつもりやったん。  そんなとこが、どこかにあるなら、教えてよ。 「逃(に)げるとこなんか、ないねん。亨(とおる)ちゃん。駆(か)け落(お)ちなんて、来るわけないって、ほんまはどっかで分かってたんやけど。それでも逃(に)がしてやりたかってん。生きて、好きな絵描(えか)いて、そんな人生、生きてもええやんて、言うてやりたかったんや」  余計(よけい)なお世話(せわ)やったみたいやけどなと、怜司(れいじ)兄さんは笑っていた。  俺はますます、すごく、暗い気分になった。  俺にもその選択肢(せんたくし)は、あったはずや。  アキちゃん逃(に)げようって誘(さそ)う、そういうコースも。  俺がそれを、とうとう最後まで口に出されへんかったんは、他でもない、あんたのせいやで、怜司(れいじ)兄さん。  俺は、あんたみたいになるのが怖(こわ)くて、アキちゃんに、捨(す)てられんのが嫌(いや)で、それを言い出す勇気がなかったんや。  大義(たいぎ)やし。お家(いえ)のためやし。血筋(ちすじ)の定(さだ)め。  三都(さんと)の巫覡(ふげき)の王なんやし。男の子には面子(めんつ)があるわ。  命をかけても守らなあかん、名誉(めいよ)があるわて。  それは正しいことかもしれへん。正しいように聞こえる。  でも、ほんまは、皆(みな)が間違(まちが)っていて、怜司(れいじ)兄さんだけが正しいことを言うてたんやないの。  アキちゃんのおとんは、時代の波の、家の名誉(めいよ)の、犠牲(ぎせい)になったんや。  ただ絵描(えか)いてられれば幸せな、息子(むすこ)のほうと大差(たいさ)ない、絵描(えか)きのボンボンやったのに、嫌(いや)が応(おう)にも英雄(えいゆう)になった。そういう道しかなかったんや。  こっちもあるで。一緒(いっしょ)に行こう。お前が死ぬなんて我慢(がまん)できへんて、言うてくれる相手がおって、おとんはほんまに迷惑(めいわく)やったんか。  俺にはよう、わからへん。そうやとは、思いたくない。  逃(に)げようって誘(さそ)うのが、真(まこと)の愛かもしれへんで。  名誉(めいよ)も大義(たいぎ)も振(ふ)り捨(す)てて、とにかくお前を守りたいって、言うてくれる誰(だれ)かのほうが。  難(むずか)しいなあ。愛は。  ほんま言うたら俺も、ようわからへんねん。  アキちゃん好きやより先の、小難(こむずか)しいことは。  いろいろ考えてみても、結局(けっきょく)のところ、わからへん。 「俺なあ、亨(とおる)ちゃん。もとは四条(しじょう)河原(がわら)の鬼(おに)なんやで。人食うてたんや、ほんまに。そんなん、したくはなかったけどさ、でも、そうしいひんと、てめえが死ぬんや。しょうがないやろ」  そうやなあって、俺は黙(だま)って頷(うなず)いていた。 「そんな俺のことを、暁彦(あきひこ)様は、お前は雀(すずめ)やないかって。人に尽(つ)くせば神になれるでって、言うてたわ」  その出来事(できごと)が今も、色あせへん総(そう)天然色(てんねんしょく)で心の中にあるように、怜司(れいじ)兄さんは話していた。  そうや。それが秋津(あきつ)マジックや。俺かて身に覚えがあるわ。  お前は鬼(おに)やないと、アキちゃんが言うてくれた時の、胸(むね)のざわめきを。  怜司(れいじ)兄さんもその手で、落とされてもうたん?  ワンパターンやな。  そう思えて、俺が苦笑(くしょう)していると、怜司(れいじ)兄さんも照(て)れたような、苦笑(にがわら)いやったわ。 「でもな、亨(とおる)ちゃん。ほんま言うたら、神になれるかなんて、それもな、どうでもええねん……」

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