693 / 928

26-119 トオル

 怜司(れいじ)兄さんが犬に無理矢理(むりやり)「ハクション大魔王(まおう)」を歌わせ、今度こそほんまに酔(よ)っぱらっていたらしい遥(よう)ちゃんが、お前もなんか歌えと言われて、少年時代からヴァチカンの聖歌隊(せいかたい)で鍛(きた)えた喉(のど)で、ハレルヤを絶唱(ぜっしょう)していた。  みんな歌が上手(うま)かった。さすがは神や妖怪(ようかい)どもや。  ローレライの魔女(まじょ)っぽいやつに、うっかり歌わせてもうて、みんな朦朧(もうろう)としたりするハプニングもあった。  あかんあかん、寝(ね)たらあかん。  魔女(まじょ)、急遽(きゅうきょ)退場(たいじょう)。  でもそれは、魔女(まじょ)のせいばっかりやない。  日付が変わる頃(ころ)ともなると、皆(みな)待ちくたびれて、昼間の疲(つか)れもあって、うとうと眠(ねむ)る姿(すがた)もそこかしこに現(あらわ)れだしていた。  怜司(れいじ)兄さんもめっちゃ眠(ねむ)そうやった。  なんせアキちゃんのせいで徹夜(てつや)続きや。ろくろく寝(ね)てない。  伏(ふ)し目(め)がちな目の、長い睫毛(まつげ)が重そうに見えた。  怜司(れいじ)兄さんはもう自分が歌う気はないんか、DJブースは空(から)にして、みんなが寛(くつろ)ぐ赤いソファ席のほうに来ていた。  竜太郎(りゅうたろう)が直衣(のうし)姿(すがた)のまま、袖(そで)をくちゃくちゃにして、怜司(れいじ)兄さんに凭(もた)れて眠(ねむ)りこけ、蔦子(つたこ)さんも度々(たびたび)の予知(よち)の疲(つか)れか、起きてんのか寝(ね)てんのか分からんような、ぼうっとした横顔(よこがお)をしていた。  犬は水煙(すいえん)になんか言い聞かせられていたんか、黒い犬の姿(すがた)になって、アキちゃんの足下(あしもと)で、眠(ねむ)ったようなふりをしていたし、当の水煙(すいえん)も、人型でいるのがしんどいとか言うて、物言わぬ剣(けん)の形に戻(もど)り、アキちゃんの手元にあった。  俺はアキちゃんの隣(となり)に、ぴったりくっついて座(すわ)ってた。  アキちゃんが段々(だんだん)無口で、段々(だんだん)と緊張(きんちょう)しているふうに見えたんで、なるべく傍(そば)に、ぴったりくっついて居(お)りたかったんや。  おとんも俺を傍(そば)から離(はな)すなって、言うてたやん。  せやし不謹慎(ふきんしん)やないで、ここでベタベタしとっても。  もっともアキちゃんは無言で、ずうっと絵を描(か)いていた。  誰(だれ)のとも知れへん、綺麗(きれい)な歌声が次から次へと聞こえてくる中、真新(まあたら)しいスケッチブックに、アキちゃんは黙々(もくもく)と鉛筆(えんぴつ)を走らせて、そこらじゅうにある異界(いかい)の、美しい異形(いぎょう)の者たちの姿(すがた)や、朧気(おぼろげ)に霞(かす)んで見える、この中庭の宴席(えんせき)の風景を、さらさらと素描(そびょう)していた。  俺はただそれを、アキちゃんにくっついて見てるだけ。  それでも何か、幸せなような。豊(ゆた)かな時間がゆっくりと、流れているような気がして、この時がずっと、終わらんかったらええのにと、心の隅(すみ)で思ってた。  でも、スケッチブックの紙が尽(つ)きてもうて、アキちゃんは描(か)くのをやめた。  一冊(さつ)全部に、ぎっしりと、鉛筆(えんぴつ)だけで描(か)いた絵が詰(つ)まっていて、スケッチブックはずしりと重いように見えた。 「紙なくなってもうた」  小さくため息をついて、アキちゃんは描(か)き疲(つか)れた指の、黒く煤(すす)けた鉛筆(えんぴつ)の粉を、濡(ぬ)れたタオルで拭(ふ)き取っていた。 「狐(きつね)に新しいの出してもらうか」  もっと描(か)くかと俺が訊(き)くと、アキちゃんは首を振(ふ)って、車座(くるまざ)の向かいのあたりを視線(しせん)で指した。  そこでは大崎(おおさき)茂(しげる)が腕組(うでぐ)みをして、ソファに腰掛(こしか)けたまま、目を閉(と)じていた。  寝(ね)てんのか、それとも起きてんのか、わからへんのやけども、寝(ね)てんのかもしれへんかった。  もし起きてたら、まだ舞妓(まいこ)さんの格好(かっこう)したままの秋尾(あきお)が、先生の肩(かた)にもたれて眠(ねむ)っているのを、振(ふ)り払(はら)ったかもしれへん。  その割(わり)には、起きてるような息遣(いきづか)いやねんけど、ここはちょっと、寝(ね)てたってことにしといてやろうか。  天下(てんか)の大崎(おおさき)茂(しげる)やし、人様(ひとさま)のいてはるとこでは、狐(きつね)といちゃついたりせえへんねん。  邪魔(じゃま)しちゃ悪いか。  俺もそう納得(なっとく)して、もう絵は描(えが)かへんというアキちゃんに、グラスに注(つ)いだ京都の水を飲ませてやった。 「待ってると、なかなか来(き)いひんもんやな」  苦笑(にがわら)いして、アキちゃんは水を飲んでいた。  確(たし)かにもう、運命の日が始まって、三時間も過(す)ぎている。  いったいいつ、鯰(なまず)様は起きるんや。  まさか予言(よげん)がハズレてたなんて、そんな甘(あま)いことはないんやんな。  このまま何事も起きず、あれえ不発(ふはつ)やったねえって、皆(みな)で笑って解散(かいさん)なんて、そんな事には。 「おとんと、おかん、いつ戻(もど)ってくんのやろなあ」  ごそごそと、アキちゃんの脇(わき)にもぐって、腕(うで)をからめつつ、俺は訊(き)いた。 「戻(もど)ってきても、お前を龍(りゅう)の生(い)け贄(にえ)になんて、俺は絶対(ぜったい)しいひんから」  俺に安心しろというふうに、アキちゃんはひそめた声で、断言(だんげん)していた。 「水煙(すいえん)ならええの」  なにげないふうに、俺が訊(き)くと、アキちゃんはぐっと詰(つ)まった。  すぐ手元には、寝(ね)てるみたいに黙(だま)りの、ご神刀(しんとう)・水煙(すいえん)様があり、そんな話になってても、やっぱり何にも言う気配(けはい)はなかった。 「ええことないなら、何か考えんとあかんのとちゃうの?」 「もう、ええねん。お前は心配せんでもええよ。俺は覚悟(かくご)を決めたから」

ともだちにシェアしよう!