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26-121 トオル
俺は困 って、アキちゃんの顔が見たくなり、強く抱 いてる腕 を逃 れて、うつむくアキちゃんの顎 を上げさせた。
「そんなことないよ……幸せやったよ、俺、アキちゃんのとこで」
「そうか」
嬉 しそうに、でもちょっと寂 しそうに、アキちゃんは言うた。
「ありがとう。俺も幸せやった」
にこりとして、アキちゃんはそれが結論 みたいに、俺に感謝 していた。
アキちゃん、なんで急に、そんなこと言うの。
やめて、そんなん、なんかこう、ちょっと不吉 やないか。
まるでもう、俺らこのまま、お別れみたい。
なんでなん。今もこうして、すごく近くで抱 き合 うてんのに、なんでそんなこと言う必要があんの。
「瑞希 、目を醒 ませ」
足下 で眠 っていたらしい犬に、アキちゃんは強い声で呼 びかけた。
そして手元にあった水煙 の柄 をとり、膝 に乗れと促 した犬が躊躇 うのを、強引 に引 っ張 り上げた。
そしてアキちゃんはそのまま、三人まとめて抱 いた。
そんなこと、逆立 ちしてもできる男やなかったのに。
「大崎 先生、来ます。地震 やで!」
アキちゃんは離 れた向かいの席にいる、腕組 みした大崎 茂 に、そう呼 びかけた。
すると大崎 茂 は、ぱちりと目を開いた。
灰色 のような、妖 しい緑色の異彩 を放つ、異形 の目やった。
「蔦子 さん、朧 、竜太郎 !」
眠気 にぼんやりしている連中を、叩 き起 こすような声で、アキちゃんは呼 びかけ、最後にフロアに座 っている、狩衣 のやつらを見渡 した。
「信太 !」
呼 びかけると虎 は、眠 ってはおらんかった。
ぐったり弱っているふうな、鳥さんを抱 き寄 せてやったまま、信太 はしゃんとして座 り、アキちゃんに頷 いて応 えた。
そして、ぐらりと揺 れた。
ずしんと地の底から叩 き上 げ、何もかもを揺 るがすような鳴動 が来て、それが始まりやった。
ぐらぐらと世界が揺 れた。
テーブルの上にあった酒器が倒 れ、打ち合わされたグラスがしゃんしゃんと、けたたましく鳴った。
アキちゃんは強く、俺を抱 きしめていた。
アキ兄 、こわいようと、竜太郎 が言う声がして、それを縋 り付 かせたアキちゃんが、大丈夫 やと怒鳴 るように言うた。
蔦子 さんはか細 い悲鳴を上げて、朧 に抱 き寄 せられ、ひそひそと、俺には何か意味のわからない言葉で祈 った。
びしびしと、ものすごい音をたてて、俺がアキちゃんの袖 ごしに見上げた先の、なにもないはずのところに、稲妻 のような形の亀裂 が走り、ぼろぼろと、何かが崩 れ落 ちてくるのが見えた。
たぶんあれは、壁 やないやろか。
瑞希 ちゃんがヘタ絵を描 いていた辺 りやった。
本来やったらあのへんが、ヴィラ北野 の中庭の、外壁 なんや。
今は怜司 兄さんの魔法 で、この中庭は、現世 からちょっと離 れた別の位相 に位置してる。
せやけどもしも、そんな魔法 なんぞなくて、普通 にホテルの中庭に居 ったとしたら、俺らはひび割 れ崩 れ落 ちる建物を見たろうし、崩落 してきた外壁 で、怪我人 かて出たやろう。
しかし落ちてきた何かは、俺らにかすりもせず、半透明 に薄 れた幻 のようになったまま、ずしんと地を打 った。
「やばいな先生! もうちょっと遠い位相 へずらそうか?」
焦 ったふうに怜司 兄さんが、アキちゃんに聞いてきた。
でも、そんなん訊 かれても、アキちゃんにわかるわけない。
ぼんくらやねんから!
代わりに大崎茂 が答えていた。
「持ちこたえろ、朧 。あの糞 支配人 が、普通 の客も泊 まらせとんのや。現世 から遠のきすぎて、何ぞ障 りが出たら元も子もない」
糞 支配人 て言われてる。藤堂 さん。
一般人 にとっては、神隠 しにあうのにリスクもあるらしい。
それで大崎 先生は、一般人 泊 めろて藤堂 さんが頼 んだ時に、それを渋 ったんやな。
だが幸 いというか、当然というか、でかい神の手でひっつかまえられて揺 さぶられるような、その激 しい揺 れは、ただ激 しく揺 れたというだけで、俺らには何の被害 もなかった。
ものすごい地響 きも、壊 れた建物が崩壊 していくような、おっかない軋 みも、ただ怖 いというだけで、何の害 もない。
それは俺らが霊振会 の手による堅固 な結界 の中に居 ったからやし、別の位相 の中にいたせいや。
一種のシェルターの中に、匿 われていたわけや。
けど、そんなところに逃 げ隠 れしていられるのも、この時が最後。
俺らには、仕事があるんや。
揺 れはしだいに収 まった。
腹 に響 く地響 きが、やがて静まりかえり、怖 ろしいような静寂 になった。
からころと、瓦礫 の落ちる静かな音が、どこからともなく聞こえるばかり。
ゆっくりと俺は、アキちゃんの胸 から顔を上げた。
蔦子 さんが祈 る、ひそやかな声は、まだ続いていた。
オバチャマは、眉間 に皺寄 せて熱心に祈 り、そして突然 、両腕 を天に向けて掲 げた。
「天地(あめつち)よ、天照 らす大神 よ、御光 を、差 し向 け給 え」
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