725 / 928
27-29 アキヒコ
ぐっと堪 えて、再 び化 けの皮 をかぶった朧 様の、それが捨 て台詞 やった。
信太 はそれに苦笑 した。
「あいつはちょっと、泣いたほうがええんや……」
独 り言 みたいに、そう言うて、信太 はまた鯰 と向き合 うた。
そしてもう、振 り返 りはしいひんかった。
その時、見たのが、信太 が見た、最後の朧 の姿 やったと思う。
それっきりやった。二人 は。
どんなに長く付き合 うたとしても、別れる時にはそんなもんかもしれへんけども、いくら可愛 ない言うたかて、仮 にも一時は連 れ添 ったようなもんなんやないの。虎 と雀 は。
そやのに、こんなんでええの。
そうドギマギしてたんは俺だけか。
皆 、さっさとやろかみたいな雰囲気 で、実際 にさっさとやった。
ぽつねんと突 っ立 っている朧 の姿 の哀 れっぽさに、後 ろ髪 ひかれているのは俺だけで、誰 もそれには頓着 してへんかった。
八割方 仕上がっていた祭壇 に、後から運 び込 まれた、神事 のための神棚 のようなもんが置かれ、鏡 が祀 られ、立てられた柱には真新 しい榊 が飾 られた。
準備 は着々と、あっと言う間に進み、俺は大崎 先生に促 されて、白木 の床板 のうえに上がった。
どうしても気になって、振 り向 いて見下ろすと、朧 はじいっと信太 の背 を見つめていた。
どことなく、恨 んだような目で。
そうして佇 んでいると、確 かに奴 も鬼 のようやった。
青白い血の気 のない顔が、怖 ろしいほど真っ白な美貌 で、背景 には崩 れ落 ちた街と、それを焼 き尽 くすような猛火 が見えた。
それを背負 って立 つ朧 は、肩 を落としていたが、かすかに唇 を噛 みしめて、爛々 と鋭 い視線 を信太 の背 に向けている表情 は、今にも食らいついて来そうな鬼 の面構 えやった。
虎 はきっと朧 にとって、美味 そうやったんやろう。
食うても食いきれんような強い神で、愛してくれた。
おとんの代打 に、ちょうど都合 がよかったんやろう。
そやけど結局 、あいつは逃 げ切 れへんかったんや。おとんが好きやっていう、自分の感情 から。
全速力で逃 げても、逃 げ切 れへんかったんやろう。
逃 げたかったか。お前は。
それで恨 んで、そんな目で信太 を睨 むんか。
そやけど、それは、信太 のせいではないと思うで。お前が悪かったんや。
それとも、俺のおとんが悪かったんかな。
それとも、誰 も悪くはなかったんか。
ただどうしようもない、運命の悪戯 か。
朧 にとっては、俺のおとんが、運命的な相手やったんやろな。
ただその相手と、別の運命によって、引 き離 されただけや。
そして朧 は信太 とも、引 き離 されようとしていた。
それをやる運命の神は、どこを探 さんでも、目の前にいた。
目の前の崖 の中に、繭 にくるまる地虫のような姿 をした、鯰 と呼 ばれる神が。
この神の、ほんの僅 かの身じろぎが、俺ら人の子の、運命を弄 ぶ。
しかし神には悪気はないやろ。ただ普通 に生きているだけで、この神は、地を揺 るがすほどの力を持っているんや。
祈 るしかない。
祈 るのが、俺の仕事や。
拝 み屋の息子 やさかいな、アキちゃんは。
そのやのに俺は、どないして祈 ればええのか、その作法 も知らんかった。
なぁんも知らんねん、アキちゃんは。今までずっと、絵だけ描 いて生きてきた、ぼんくら息子 なんやもん。
祈祷 の代打 は、大崎 茂 大先生がした。
霊振会 の皆々様 が見守るなか、鏡 と太刀 と酒を捧 げて、大崎 先生は厳 かに歌うような調子で、鯰 に何か語りかけていた。
鯰 がそれをどのくらい聞いていたのか、俺には分からん。
神に人の声を聞かせようとしたら、それには強い通力(つうりき)が必要なものらしい。
特に鯰 のような、あんまり人間に頓着 しいひん、人の話聞いてへん神さんに、こっちの話を聞いてもらおうと思ったら、それなりの霊力 を注 ぎ込 まなあかん。
ただブツブツ祈 っとったら、ほうほう、なるほどねって聞いてくれるような、生易 しい神さんやないんや。
祈 る大崎 先生のこめかみからは、汗 が滴 り落 ちた。
俺はただそれを、脇 で畏 まって見ているほかに、できることがなかった。
なんで秋津 家の一族が、三都の巫覡 の王として、長年崇 められてきたか。
それは、うちの血筋 には、神々と交感 できる強い素養 があったからや。
それは、血筋 の始祖 の出生 に由来 する力や。
うちの初代の暁彦 様は、半神半人 やった。
神のごとき通力 を持っていた。
半分くらいの割合 で神さんたちの仲間やった。
片親 は水煙 で天人 なんやし、月読(つくよみ)や海神(わだつみ)が祖父 さんみたいなもんや。
神々にとっては、うちの一族は遠縁 の親類 なんや。
ともだちにシェアしよう!