730 / 928
27-34 アキヒコ
言うなおとん。頼 むから言わんといてくれ。
今めちゃめちゃ緊迫 のシーンで、虎 なんか生きるか死ぬかの瀬戸 際 や。真剣 に行ってくれ。
めちゃめちゃ真剣 に頼 む。信太 が可哀想 すぎるやないか。
俺はもう泣きそう。
この儀式 の供物 として、祭壇 にいる真っ黄色の虎 は、なんとも言えん顔つきで、おとんとフュージョンした俺を振 り返 っていた。
「暁彦 様で?」
敵意 とまでは言わんけど、虎 はおとんを警戒 していた。
そら、まあ、しゃあないな。
「そうや。長く蔦子 姉ちゃんに仕 えてくれたそうやな。今回のことは、お前に礼 を言わんとあかん。人ならぬ者 とはいえ、たった一つしかない命や。死ななあかんのは怖 いやろ。よう覚悟 してくれた」
落 ち着 き払 った大人 っぽい声で、俺が言うた。
いや、おとんが言うた。
信太 はそれに、見た目にはっきりわかるほど、顔をしかめた。
心中 かなり複雑 そうな表情 やった。
「神戸 のためや……。俺が死ぬのは、本家 のためでも、暁彦 様、あんたのためでもない。礼 を言われる筋合 いやないです」
「それでかまへん。始めよか」
えっ、もう始めんの?
俺は内心そう思ったが、もう遅 すぎるくらいやった。
何をもたもたやってんのやと、おとんには思えていたんやろ。
のろのろやろうが、さっさとやろうが、虎 が死ぬのは決まってる。そんなら早うせな、延 ばし延 ばしにしてる間に、助かるはずの人間が、どんどん死んでいってんのやしな。
「掛巻 も最(いと)も畏 き天地(あめつち)の御神 ──」
鞘 はないはずの水煙 の刀身 を、抜 き放 つようにして、おとんが押 し頂 くと、白銀 の刀身 が濡 れたように輝 くのが見えた。
自分の喉 から流れ出る、まったく聞き覚えのない、それでいて、なぜかよく知っているような気のする言葉の連 なりを、俺はぼんやりとして聞いた。
祝詞 や。うわぁ、なんでか俺が祝詞 を。
おとんが俺に取 り憑 いて、操 っているからこそできた神業 やけども。
うちの家には様々 な、祝詞 や呪文 のたぐいが伝わっている。
先代当主 を務 めたおとんは、もちろん幼少 の頃 からそれを学び、秋津 に蓄 えられたあらゆる知識 に精通 してんのや。俺と違 うてな。
それは本来、門外不出 の秘密 の呪文 みたいなもんなのや。
おとんは大声で祝詞 を唱 えたわけやない。囁 くような声やった。
それでも天地(あめつち)の神は聞いている。言霊 に乗せて祈 られる言葉の数々を。
言霊 というのが、どういうもんか、俺は自分の口がそれを使うのを見て、初めて理解 した。
霊力 をこめて語られた言葉や。
ただペラペラと、決まった文句 を唱 えれば、それでいいというもんやない。
これは呪術 で、おとんは言葉に乗せて呪法 を使 うてるんや。
言葉自体は、古い古い時代のもんで、今を生きてる俺らが聞いても、ぶっちゃけ意味なんかわからへん。ほとんど外国語みたいなもん。
そやけど鯰 様は古い神さんや。
ずうっと昔から、近畿 のこのあたりに棲 み付いていて、地下深くで眠 っている。ときどき出てくる。そんな神さんやからな、現代 語なんて、わからへんのや。
古い古い言葉で話しかけてやっと、なんとなく意味分かるという、そういうことなんやで。
皆 も、フランス人に話しかけるときには、フランス語やないと通じへんな、と思うやろ。それと一緒 。
神様と話す時には、その神さんの聞いてくれる言葉で話さなしゃあない。というのが作法 。とりあえず礼儀 。
いきなり今の京都弁 で、あのう、ちょっとすんませんけどなんて話しかけるのは失礼なんやで。
俺はそうするしかないから、そないするけど。ほんまはあかんのやで?
全然気にしはらへん神さんも多いんやけど、通じてへん時もあるしな?
ましてや鯰 は人と積極的 に交流 したがる神やない。
おとんの祝詞 も、始めはさほど、聞いてるようには見えへんかった。
チラリとこちらに目をくれはするものの、聞いてるようには見えへん。
そやけど、おとんは根気 強 く鯰 を口説 いた。
ともだちにシェアしよう!